田口八重子さんに関する外務省訪朝団の聞き取り調査
(コリア・レポートNo.464 2005年9月号から)
帰国した拉致被害者らが徐々に口を開き始めたのは小泉総理訪朝(02年9月17日)から丸3年経ってからである。帰国被害者の一人、蓮池薫さんは田口八重子さんの兄、飯塚重雄さんと息子の耕太郎さんとの面会に応じ、田口さん、横田めぐみさんら含む拉致被害者6人が1986年まで同じ招待所で暮らしていた事実を明らかにしたばかりか、安否不明者に関する北朝鮮の死亡通知は「全部ウソ」と断言した。地村夫妻も、飯塚さんらに対して八重子さんに関する情報を伝えていた。
一連の拉致被害者の証言で、86年7月に死亡したとされる田口八重子さんを地村さんの運転手がその数カ月後、平壌市内の百貨店で目撃したこと、84年10月に原敕晃さんと結婚したとされているが、1986年まで独身であったことなどが明らかとなった。そこで2004年11月に北朝鮮で行われた日本側による北朝鮮調査委員会への聞き取り調査の中から田口八重子さんに関するやりとりを掲載する。
1.北朝鮮調査委員会の田口八恵子さんに関する説明
▲入国経路
1978年6月29日、(宮崎市の)青島海岸から連れてきた。海州から入境した。拉致の実行犯のリ・チョスルは1992年夏に死亡した。
▲生活経緯
・1978年6月から7月まで地方の招待所で休息
・1978年7月から79年11月まで平壌市内の招待所で朝鮮語学習、現実了解及び現実体験
・1979年12月から1984年まで平壌市郊外及び地方の招待所で日本語教育に従事
・1981年から84年までの間は横田めぐみさんと一緒に生活
・1984年10月、原敕晃さんと結婚
・1984年11月から86年7月まで(黄海北道麟山郡の)麟山招待所で家庭生活
※夫の原さんが平壌の病院に入院してからは田口さんも平壌郊外の招待所(数カ所)に移り、原さんを見舞った。そこで、他の日本人(地村富貴恵さんら?)と一緒にいた可能性もある。
▲死亡経緯
1986年7月19日、原さんが病死。夫の死去後精神的慰労のため元山で休息。同年7月30日、帰宅途中、馬息嶺で軍部隊の車と衝突し、死亡した。一緒にいた運転手も含めて3名全員が死亡した。
▲事後処理
軍は、谷間に落ちた被害者を引き上げ、元山周辺の郡病院へと護送。軍から連絡を受けた当該機関は、元山基地に指示を出し、遺骸の引渡しを受け、葬儀を行い、夫の墓地のある麟山に埋葬。遺骨は95年8月18日の豪雨で麟山郡上月里の貯水池ダムが結果し、流出した。遺品は死亡当時に焼却された。
2.北朝鮮側調査委員会とのやりとり
−−田口さんの朝鮮名は「コ・ヘオク」以外にもあるのでは?
共和国に入国して以来、「コ・ヘオク」以外の他の名前を付けたことはなかった。
−−原さんと結婚したとのこどだが、年の差が離れ過ぎているのでは?
初めは、年の差が離れているため躊躇していたが、何回か会ううちに結婚に同意するようになった。
−−田口さんの拉致実行犯の情報を求めたい。
田口さんを連れて来た実行犯は、最近、病気で死亡したと承知している。田口さんの入国への辛光洙の関与はなかった。
−−実行犯の氏名、死亡時期はいつか?
1992年夏に心臓病で死亡した、氏名はリ・チョルスである。日本語はできないが、英語ができる。
−−10日間のうちに夫婦が相次いで死亡したのは不自然ではないか?
我々も残念に思っている。現実は現実としてある。我が国に「災いは両方からやって来る」という諺がある。こうした場合を指すものであろう。
−−病院の所在地はどこか?また、墓地の流出を証明する文書はあるのか?
病院は特殊機関に属するため、所在地は明らかにできない。墓地の所在地や流出を証明する文書はない。
−−田口さんは死亡時も平壌の招待所にいたのか?
自分の知るところでは、地方で生活していたが、夫が入院していることから平壌に移った。詳細は確認して後ほどお答えする。
−−軍の事故当時の関係者から話を聞けるか?
(関係者は)現職なので会うのは困難と考える。
−−事故の記録はあるのか?
文書庫にあるので、後ほど写しをお渡ししたい。
−−田口さんは、83年から86年まで横田めぐみさんと(平壌市中和郡)忠龍里招待所で生活していて84年10月に婚姻したという事実はなかったとの情報がある。結婚の日付をどうやって確認したのか?申請書があるのか?
特殊機関に(結婚の事実を)確認した。また、田口さんと原さんが一緒の招待所で生活していたところを目撃した証人がいるので、後ほど面会の際に話を聞いて欲しい。拉致被害者は我が国の公民ではないので、結婚を法的に認めるような手続きはない。以前、貴国側に結婚申請書を渡した経緯があるが、これは一部の人間が結婚生活の事実に基づき勝手に作ったものだった。招待所については調査する。
−−田口さんは、83年から86年まで忠龍里招待所で生活した後、86年7月20日に(平壌市龍城区域の)龍城招待所に移ったとの情報を得ている。
田口さんは、横田めぐみさんと共に81年から84年まで忠龍里招待所で生活していたことが判明している。84年11月から86年7月までは麟山招待所で生活していたが、夫が平壌の病院に入院したことから、平壌郊外の招待所に移り、そこで夫に面会した。
−−田口さんの朝鮮名は「コ・ヘオク」以外にもあるのでは?我が方の調査では、(大韓航空機爆破事件の実行犯)金賢姫に日本語を教えた「リ・ウネ」が田口さんであることが判明している。
田口さんは共和国に入国して以来、コ・ヘオクとの朝鮮名を通してきており、他の朝鮮名はなかった。「リ・ウネ」と呼ばれたことはない。ご指摘の点は、明らかに間違った情報によるものと考える。我々は特殊機関に入って直接確認した。
−−特殊機関では幾つもの名前を持つと聞いているが、田口さんは一つだけだったのか?
確かに特殊機関では、何回も名前を変えたり、幾つかの仮名を使っているが、日本人拉致被害者の場合は制限区域に居住しているので、幾つも名前を持つ必要はない。
−−それは誰から聞いたのか?
調査委員会の人間が、特殊機関内に入って、関係者から話を聞いた。
−−(南浦ではなく)海州から入境したと判断した根拠は何か?
当該機関での調査の結果、海州から入境したとの結論に至った。
−−幼い子供がいたのに本当に旅行することに同意したのか?
最初は3日間の予定で誘い出し、そこから宮崎の海岸に連れて行った。
−−宮崎に連れ出した者の情報を求める。
その答えは後回しにしたい。当該者は既に死亡したと聞いている。
3.証人からの聴取
▲リム・ホサム元695病院副委員長、パク・ピルス元同院内科医、チョン・ユンスン
元同院内科医、キム・ヨンマン同院歯科医
−−原さんが入院している時、見舞いに誰か家族が来ていたか?
リム:秘密上の理由で、患者に対する見舞いは家族であっても制限している。
−−若い奥さんが来ていたということは?
リム:患者が重い状態の時、何回か面会に来たような記憶がある。
−−背の高い女性ではなかったか?
パク:私は当時、入院担当科長ではなく、往診担当科長だった。招待所巡回の途中に市内の色々なところで何回か見かけたことのある田口さんが原さんの部屋に来ているのを見た。調査委から提示された写真を見たが、間違いなく田口さんだ。背は高く、性格は明るく、特に覚えているのはその派手な身なりである。
−−なぜ、その人物が田口さんだとわかるのか?
パク:入院していたこともある。座骨神経痛と胃が悪いことのために入院したことがある。正確な時期は覚えていない。座骨神経痛で1回、胃のために1回の合計2回だったと思う。座骨神経痛で手術はしていない。投薬と高麗治療(針)、ならびに物理療法を施していた。腰が痛くて歩くのが困難なほどだったと記憶している。
−−原さんは見舞いに来たのか?
パク:そのあたりのことは、入院担当ではないので分からない。
−−田口さんが入院していた期間はどれくらいか?
リム:約1か月程度だったと思う。
−−原さんについては、1984年末から肝硬変の疑いがあったとこのことだが、この頃に同人は結婚していたとの話があるが...
パク:結婚していたかどうかは知らない。地方の特殊地域にある同人の家に行くと、以
前何回か見かけたことのある田口さんがいた。
−−原さんについては1984年末に肝硬変の疑いがもたれた際、パク医師は自ら地方に出向き、往診したのか?
パク:1984年に地方に赴き、担当医師に対し、刺激のある食べ物を禁止し、投薬するように言った。また、当該機関に対し入院治療させるよう問題提起した。酒を飲まないよう何度も言ったが、担当医師の話ではその後も同人は飲酒を続けていたようだ。
−84年末の段階では健康体ではなかったということか?
パク:相当悪い状態であった。肝硬変と診断し、肝臓と脾臓が腫れ上がっており、腹水があり、当該機関に対し、入院が必要であると言った。
−−84年10月頃、原さんは結婚したと聞いているが、原さんはそういう体調ではなかったのではないか?
パク:私たちの目では夫婦かどうか、あるいは結婚していたのかどうかは分からない。
▲キム・ボベ麟山郡招待所元接待員(女性)
−−田口さんと原さんが一緒にいた時に勤務していたのか?
そうだ。田口さんは1979年に平壌市郊外の招待所で初めて会った。
−−貴方は79年から田口さんと一緒にいたのか?
79年春から同年末だったと記憶している。いずれにせよ、数カ月しかいなかった。
−−その後、別の機会に原さんと田口さんが一緒にいたのか?
84年秋頃に二人が来た。自分は(平壌郊外の招待所から)別の場所に行って、84年初めに麟山の招待所に行った。
−−結婚をしていたのか?
夫婦生活をしていた。
−−年齢の差がかなりあったと思うが...
10歳以上あったと思う。田口さんは最初原さんを好きでなかったが、一緒に生活してみると、口数少なく、やさしくて実直というイメ−ジを受けたそうだ。
−−原さんの体の具合はどうだったのか?
最初に会った直後はそんなに感じなかった。数カ月たった後、医師がやってきて、肝臓が悪いと聞いた。
−−原さんは酒を飲んでいたのか?
飲んでいた。田口さんも。
−−原さんの体が悪いのに、酒を飲んでいたということは、あまり自分の体のことに気を使っていなかったのか?
酒を飲まないと寝られないようだった。ただ、医師から肝臓が悪いのでお酒を飲ませないよう指示を受けていた。原さんが田口さんにお酒を飲みたいと言って、田口さんが私に「酒はあるか」と聞いてきても、「だめだ」と言って、酒を渡さなかった。それで、二人は
自ら店に行って酒を買って飲んでいた。
−−平壌市郊外の招待所で田口さんに初めて会ったのか?その時、田口さんは一人だっ
たのか?
そうだ。同じ日本人と思われる女性がいた。比べてみると、田口さんの方が圧倒的に目
立っていた。
−−原さんはいつまで麟山にいたのか?
84年末に来たが、翌年(85年)から病院生活を頻繁に行っていた。
−−入院のことか?
入院して、少し良くなると、退院して、安定地方に入っていた。
−−病院は麟山にあるのか?
平壌だったと思う。
−−その時、田口さんはどうしていたのか?
原さんが入院してから田口さんは指導員と一緒にどこかに行った。
−−貴方は麟山の招待所にいつまでいたのか?
86年8月までいた。結婚して出た。
−−原さんのその後について話を聞いたか?
原さんについては、入院して死亡したという話を 麟山にいた時に聞いた。
−−田口さんはどうなかったのか?
その招待所に自分一人でいたが、葬儀の時に田口さんが来た。
−−葬儀はその招待所で行ったのか?
(葬儀用の)料理を招待所で作って、山に行って、葬儀を執り行った。
−−田口さんは、葬儀のために麟山に来た後、どうしたか?
気分転換のため指導員が旅行に連れて行った。運転手も含め3人でベンツ−に乗って行
った。
−−いつ頃か?
数日経ってからだ。
−−その際、荷物は?
服と化粧品等、簡単な荷造りで旅行に行った。
−−その後、田口さんがどうなったのか聞いたか?
数日経たないうちに、当該機関の関係者が10人ぐらい来て「事故で死亡した」と言った。
−−葬儀は行ったのか?
行うことができなかった。招待所で写真だけを置いて供養した。
−−遺骨は返ってこなかったのか?
わからない。
−−所持品はなかったのか?
接待員が触ることはできないので、当該機関の関係者が処理したと思う。◆