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Korea Report from Pyon Jin Il


2月22日(月)

金賢姫元工作員と横田めぐみさんとの接点

 大韓航空機爆破事件の実行犯である金賢姫(キム・ヒョンヒ)元北朝鮮工作員が拉致被害者の横田めぐみさんと「北朝鮮で会ったことがある」と発言していたことから日本政府は金元工作員を日本に招くことを検討している。

 関係者によると、金元工作員の発言は昨年5月に面会した日本政府関係者に対して行ったもので、めぐみさんとの出会いについて金元工作員は「めぐみさんが日本語を教えていた『スッキ』という同僚の女性工作員から紹介された」こと、またその時期については「1980年代の初頃で、監視の目を盗んでひそかに会っていた」と語っている。

 金元工作員が「めぐみさんと秘かに会っていた」と日本側に話していたことは、韓国の月刊誌「月刊朝鮮」が今年2月号で金元工作員の話として伝えていた。また、「月刊朝鮮」の記事よりもはるか前の昨年4月30日付で産経新聞が日本政府関係者の話として「金賢姫元北朝鮮工作員が、『横田めぐみさんと直接会って話をしたことがある』とすでに報じていた。

 「産経」によると、日本政府関係者がソウル市内で金元工作員と極秘に面会したのは4月28日で、金元工作員は「工作員教育を受けた1980年代初めに平壌の招待所で、めぐみさんから日本語を学んだ同僚の紹介で、何回か会って話をした」そうだ。

 金元工作員は日本政府関係者と会う前まではめぐみさんについては「会ったことはない」と語っていた。事実、「産経」が報じる前の「月刊朝鮮」の昨年2月号のインタビューでは「(めぐみさんが写った)写真を見たことはあるが、会ったことはない」と語っていた。「会ってない」から一転「会っていた」と「証言」を180度翻したわけだ。

 これまで公言しなかったことについて金元工作員は「めぐみさんやスッキに迷惑がかかるといけないので、会っていたことを伏せていた」とその理由を語っている。しかし、「迷惑をかけてはならない」筈の同僚の「(キム)スッキ」(金淑姫)についてはすでに大韓航空機爆破事件との関連で公にそれも詳細に喋っているし、また日本人拉致被害者の田口八重子さんについても「リ・ウネ」(李恩恵)であることを含め何一つ伏せることなくすべてを明らかにしてきた。

 今日まで田口八重子さんについては詳細に語りながら、同じ拉致被害者である横田めぐみさんについては20年以上も口を閉ざしていたことを単に「迷惑をかけたくないから」と言うのはいまひとつ説得力に欠ける。

 金元工作員は面談した日本政府関係者に「詳細については横田めぐみさんのご両親に直接会って話す」と言っている。こうしたことから韓国では「金元工作員は金に困っており、日本に行けば、マスコミの注目の的となり、再び一儲けできるから」との陰口さえ聞かれる。

 横田めぐみさんについて語りだした理由や訪日の動機はどうであれ、金元工作員とめぐみさんの北朝鮮での動静を韓国捜査当局が発表したKAL機爆破事件調査報告書や金元工作員の韓国での証言や手記を元に検証すると確かに二人の間には接点がある。

 二人の接点は、金元工作員が認めているようにめぐみさんから日本語を教わっていた金元工作員の同僚「スッキ」を介してである。

 対南工作員に選抜された金賢姫が年下の「スッキ」と出会ったのは1978年3月。平壌市東北里の10号招待所に「キム・オッカ」という名前で入居した時だ。一方、1977年11月15日に拉致されためぐみさんはこの時期は、東北里から車で1時間の距離にある龍城の招待所で拉致実行犯の一人である辛光洙(シン・グァンス)容疑者から朝鮮語学習など環境適応訓練を受けていた。1978年8月からは拉致された直後の曽我ひとみさん(78年8月12日に拉致される)と生活を共にしていた。曽我さんの証言によると「二人の同居は1年半続いた」という。

 めぐみさんと曽我さんが別れたのは1980年3月。曽我さんは亡命米兵士、ジェンキンス氏の所に移ったからだ。二人は、この年の8月に国際結婚している。

 金元工作員は1980年4月、「金星政治軍事大学」(金正日政治軍事大学に改名)に短期(1年)情報班1期として入学し、平壌市順安区域の太陽里招待所に入った。金元工作員の証言によると、「大学に通うことなく、招待所の食堂の隣にある講義室で授業も、入学式も、卒業式も行われた」とのことだ。

 一年後の1981年3月、党調査部2課に配属された金元工作員は東北里招待所に戻り、「スッキ」と一緒に9号招待所に入る。4ヵ月後の7月4日に「スッキ」と別れ、同じ東北里3号招待所(2階建ての特閣)に移り、ここで「李恩恵」こと田口八重子さんと出会う。3号招待所と9号招待所は近くにある。

 金元工作員が「李恩恵」と会った時期について韓国捜査当局が最初に発表した金元工作員の自供では「81年4月に李恩恵先生と会った」とされていた。しかし、その後、「7月4日」に訂正されていた。「翌日は李恩恵先生の誕生日だったのでお祝いした」ことを記憶していると金元工作員は語っていたが、その後、「李恩恵」が田口八重子さんであることが判明。田口さんの誕生日は7月4日でなく、8月10日であった。

 金元工作員は1981年7月〜83年3月まで「李恩恵」(田口八重子さん)から日本語を教わっている。このことは、帰国被害者の地村富貴恵さんの「田口さんが日本語を教えていた女性工作員は『オッカ』(玉花)という名前だった」との証言で裏付けられている。「オッカ」は金元工作員の偽名である。

 曽我さんと別れた後の横田めぐみさんの居所について北朝鮮は「めぐみさんは1981年〜84年まで田口さんと平壌市外の中和郡の忠龍里招待所で一緒に生活していた」と説明しているが、田口さんはこの時期に金元工作員と共に東北里の3号招待所で暮していたわけだからこれは明らかに偽りである。但し、めぐみさんがこの頃から金元工作員と別居した同じ歳の「スッキ」に東北里の9号招待所で日本語を教えていたかは不明である。

 金元工作員は労働党に入党するため1982年3月に一時、東北里招待所を離れるが、40日後の4月に再び東北里3号招待所に戻るものの、1983年3月中旬に「李恩恵」と別れ、平壌市龍城の40号招待所(1階建ての平屋)に移る。ここで再び「スッキと再会した」と金元工作員は語っている。龍城には大小の招待所が東北里よりも多くあった。金元工作員が移動した招待所だけでも龍城40号、5号、43号等だった。ちなみに40号招待所は1階建の平屋である。

 仮にめぐみさんが1981年から「日本語教官」として「スッキ」にマンツーマンで日本語を教えていたとすれば、めぐみさんは81年には東北里の9号招待所で、83年には龍城の招待所にいたことになる。ということは、「スッキ」を介してこの期間に金元工作員とめぐみさんが会った可能性も考えられなくもないが、
1981年当時、めぐみさんはまだ17歳だ。年齢的にはまだ教える立場にはないとみるべきだろう。また、関係者によると、金元工作員がめぐみさんと初めて会った時期は1984年以前ではなく、それ以降、86年までの間である。

 龍城招待所にいた金元工作員が「スッキ」と別れたのは、1984年7月。龍城招待所を離れ、「李恩恵」から日本人化教育を受けた東北里3号招待所の近くにある東北里2号招待所(2階建)に移っている。東北里2号招待所は龍城招待所から車で1時間のところにある。約1ヵ月後の8月15日に金元工作員は「蜂谷真由美」名義のパスポ−トを貰い、外地適応訓練のため平壌の順安空港を出発し、同年10月2日帰国し、再び東北里の2号招待所に戻っている。

 一方、1980年3月以降、消息不明の横田めぐみさんについては、曽我ひとみさんが83年か、84年かに平壌市内の大同江百貨店で一度再会している。曽我さんは「大同百貨店でめぐみさんから手紙をもらった」と証言している。また、蓮池さんらの証言によると、1984年にはめぐみさんは蓮池さんや地村さんら日本人拉致被害者が移転した平壌市外の中和郡忠龍里へ移ってきている。

 忠龍里の招待所に移転した横田めぐみさんは84年10月19日から田口八重子さんと一緒に暮らすことになった。「スッキ」と同居している同じ拉致被害者のめぐみさんを不憫に思ったのか、9歳年上の田口さんが「めぐみさんの面倒をみたい」と希望して、3人で暮らすことになったようだ。そのことは、地村富貴恵さんが次のように証言していることからも明らかだ。

 「(忠龍里の)田口さんの招待所にめぐみさんも同居していた。二人が暮らしていた所は3号棟。3号棟にはもう一人女性工作員がいた。2号棟にも若い工作員が住んでいて、蓮池さんの住居に通っていた。めぐみさんと田口さんは『スッキ』という女性に日本語を教えていた。」

 めぐみさんは1985年には夫となる韓国人拉致被害者のキム・ヨンナム(金英男)さんに日本語を教えていた。このことについて蓮池さんらは「1985年に田口八重子さんが一時期入院した。それで、めぐみさんは5号棟の工作員(キム・ヨンナム)に日本語を教えた」と証言している。

 めぐみさんは田口さんとは1年8か月一緒に暮していたが、1986年7月に田口さんと別れている。翌8月に金英男さんと結婚するためだ。

 蓮池さんや地村さんら拉致被害者全員が1986年に忠龍里の招待所から平壌市順安区域の太陽里招待所に移っている。86年8月13日に21歳で金英男さんと結婚しためぐみさん夫婦も他の拉致被害者らがいる平壌市順安区域太陽里にある招待所に引越ししている。帰国拉致被害者らは「めぐみさんが太陽里招待所に引っ越してきたのは1986年8月である」と証言している。

 太陽里招待所で横田めぐみさんは1987年9月13日、ヘギョン(ウンギョン)ちゃんを出産している。ヘギョンちゃんが生まれた時に太陽里招待所にいたことは「赤ちゃんが産まれたときは、皆でお祝いした。めぐみさんは夫と産まれたばかりの赤ちゃんを乗せたベビ−カ−を押して、一緒に散歩していた」との蓮池、地村両夫妻らの証言で立証されている。

 上述の「産経」の記事によると、金元工作員は田口さんの家族と面会した際に、めぐみさんについて同僚の「スッキ」から聞いた話として、「韓国人と結婚し、娘を産んだと聞いた。心を病み少し入院したこともあったが、さほど深刻でないということだった」と述べていた。ということは、仮にめぐみさんと会ったとすれば、めぐみさんが結婚する前、即ちめぐみさんが太陽里の招待所に移る1986年8月以前である。

 金元工作員は1985年1月、東北里の2号招待所から龍城の5号招待所に移っている。彼女の手記によると、ここで「スッキ」と84年7月以来、4か月ぶりに再会したことになっている。金元工作員は「スッキは(1983年3月から)ずっとここにいた」と証言しているが、「スッキ」は84年にはめぐみさんや田口さんらと忠龍里の招待所にいたわけで、地村富貴恵さんの証言とは食い違いが生じる。

 いずれにしても、金元工作員は85年1月に龍城招待所で「スッキ」と再会し、二人は1年6月後の86年7月に一緒に中国語取得のため広州に旅立ち、1987年1月20日に帰国し、二人とも再び同じ龍城招待所に入っている。金元工作員はこの後、9月に工作員専用の「9.15病院」に入院し、整形手術を受け、11月20日にKAL機爆破の任務を帯び、平壌を出国、二度と北朝鮮には帰れぬ身となっている。

 めぐみさんが韓国人拉致被害者の金英男さんと結婚したのは「スッキ」が語学研修のため金元工作員と海外旅行中の1986年8月13日(北の発表)。従って、「スッキ」も帰国(1987年1月20日)してから結婚したことをめぐみさん本人から直接聞いたか、あるいは第三者を通じて知らされたのだろう。また、ヘギョンちゃんが誕生したのが1987年9月13日(北の発表)ならば、大韓航空機爆破の指令を受け、平壌を去る1987年11月20日までの2ヶ月の間に「スッキ」からめぐみさんの出産を知らされていたことになる。

 金元工作員が「スッキ」の紹介でめぐみさんと会ったとすれば、1984年ではなく、「スッキ」と再会した1985年1月から中国に旅立つ1986年7月までの間ということになる。また、忠龍里の招待所で84年10月19日から田口八重子さんと一緒に暮らしていためぐみさんは86年7月に田口さんと別れ、金英男さんと結婚し、太陽里招待所に移っている。このことから、金元工作員は忠龍里でめぐみさんが田口さんや「スッキ」と一緒に同居していた1985年から太陽里に引越しする1986年8月の間にめぐみさんと会っていたことになる。

 めぐみさんの父、横田滋さんは「詳しい話は直接、私たち両親にすると言っているようなので、日本に来られなければ、こちらから行って、直接会ってめぐみの話を聞きたい」と話している。◆無断引用・転載は厳禁。著作権保護法に抵触


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