2008年11月24日(月)

北朝鮮残留日本人問題

 過去の清算=「北朝鮮残留日本人問題」
 過去の清算、戦後処理は何も北朝鮮が求めている従軍慰安婦や強制連行の問題解決という点からだけでなく、日本人にとっても極めて重要な問題である。
 敗戦後に共和国に取り残された残留日本人問題がそれだ。中国に残留孤児があって、東南アジアに旧日本軍人が生存していて、共和国に一人も存在、生存していないとは常識では考えられないと思う。相当数の残留日本人が朝鮮人を装って、今日まで暮らしているはずだ。
 昭和25年(1950年)に引揚げ援護庁の資料「引揚げ援護の記録」によると、「終戦時の在外邦人生存者数は660万人以上である」。「ソ連軍管区(旧満州、北朝鮮、樺太及び千島)には272万人と全海外同胞の41%にあたる邦人がいた」「戦時中の制止不明者が相当数あった」と記されている。
 戦前満州には150万人の日本人が送り込まれていた。中国残留日本人孤児は戦前、戦中開拓に移り住んだ人の子供である。ソ連侵攻の混乱期に肉親が生き別れたり、死別したり、置き去りになった。敗戦時に13歳未満。1972年の日中国交正常化以後2,500人が国費で日本に永住帰国した。このうち6割が生活保護を受けている。日本での苦境は@長い間中国で生活していたので日本語が不自由A高齢での帰国なので、就業できなかった。現在は1人につき2万2千円の年金。拉致被害者は17万円が支給されている。

 ▲北朝鮮の残留邦人
 朝日新聞(キーワード、北朝鮮の残留邦人)によると、「敗戦時(45年8月15日)、38度線以北の北朝鮮側に住んでいた軍人以外の邦人は27万人を超す。さらに、ソ連産戦後、約7万人が日本へ引き揚げようと、中国東北部(満州)から南下した。しかし、旧ソ連軍が38度線で交通を遮断したため、多くの邦人が北朝鮮各地にとどまらざるを得なかったとされる」
 民間人だけで34万人。これにシベリアから移送された日本軍人を合わせると、総勢40万人近くの日本人が解放直前まで北朝鮮に暮らしていた勘定になる。
 ソ連軍が朝鮮半島に進駐し、米ソにより38度線が引かれたことで日本への引き揚げに失敗した日本人(今では朝鮮人として暮らしている)も相当数に上るだろう。日本の厚生省は国交がないことから一度も北朝鮮に赴いて、取り残された日本人の消息、安否を確認したことはない。
 ※1990年11月現在、海外引揚者地域は北朝鮮から297,194人。このうち222,557人は1945年12月末まで帰国している。以後、1946年6月に26,079人、1946年12月に3,954人、1947年1月に69人で、47年2月からはゼロとなった。韓国からは1990年11月現在、416,109人が帰国した。

 ▲海外で没した日本兵
 海外で没した旧日本軍は240万人。半分しか柱が戻ってこなかった。「戦死者に冷たい国」と言われても仕方がない。厚生省は1965年に「遺骨収集はおおむね終了した」と宣言。太平洋戦争で最も過酷な船上の一つだったインドネシアのニューギニア島にあるヒクア島に大量の遺骨が野ざらしにされていたことが東京新聞の報道でわかった。
 ※07年10月19日付の読売新聞に「シベリア東部のハカシア共和国の埋葬地で収集された鹿児島の方(34歳)の遺骨が彼の娘さん(46年2月に満州で生まれた)に51年ぶりに引き渡された。

 ▲シベリア抑留日本兵
 (2006年3月7日付の毎日新聞)
 「シベリア抑留死亡者の名簿を調査してきた新潟県の元中学校経論、村山常雄(80歳)さんが吉川栄治文化省を受賞。91年から旧ソ連から厚生省に届き、発表された約3万6千人のカタナカの死亡名簿を検証し、漢字化した」
 (2005年10月31日、栃木県選出の民主党の谷博之参議院議員が政府に質問状を提出。11つき1に政府の回答が届いた)
 質問@「現時点で政府は旧ソ連から北朝鮮に移送された抑留者の数をどのように把握、又は推定しているのか?
 「旧ソ連抑留者の数から本邦に帰還した者の数、及び旧ソ連邦及びモンゴル地域において死亡した者の数を控除した数は約4万7千人となっている。この中に北朝鮮の地域に移送された旧ソ連邦抑留者が含まれるものと考えているが、その具体的な数字については承知していない」
 質問A「北朝鮮への移送の事実をいつ知ったのか?」
 「戦後本邦に帰還した者からの情報などから遅くとも昭和21年には政府として、北朝鮮に移送された旧ソ連邦抑留者がいることについて承知に至った」
 質問B「北朝鮮で亡くなったシベリア抑留者の遺族にはその旨の通知が行われているのか?
 「北朝鮮で亡くなった者の通知については行っていない」
 質問C「北朝鮮政府に対してもこの問題での資料、情報の提供、調査団の受け入れなどを要請する必要があると思うが、やっているのか?」
 「北朝鮮の地域に移送された名簿についてはロシア語から日本語への翻訳が終了したところである。これを受けて、移送者名簿に記載された者の身元の特定について具体的な方法を検討し、作業を進めていく。その進捗状況、日朝関係などの状況を見つつ、今後対応を検討していく考えである」
 ※山崎拓前副総裁は07年9月18日内外情勢調査会の講演で、今年1月に訪朝した際、「とにかく国交正常化の暁には北朝鮮にいるすべての日本人を日本に返してくれ」と要請。「拉致、日本人妻、よど号(実行犯)であれ、生存する日本人を直ちに日本に帰還させる(ように)」と提案したという。

  読売新聞(2005年8月19日)への投稿(主婦の玉井怜子さん、68歳)
  「北朝鮮への墓参 早く実現を願う」
  「60年前の8月15日、平壌の官舎で私達親子は終戦を迎えた。父は当時、将校として部隊に入っており、39歳の母、8歳の私、4歳と生後7か月目の弟、日本からついてくれた若いお手伝いさんの6人で生活していた。
  その2ヶ月前に、千葉の疎開先からやって来たばかりの私達だったが、この日のラジオ放送を境に生活が一変した。ソ連か下士官の略奪や暴行、手のひらを返したような態度の朝鮮の人たち、食糧難・・・・。私達は家を追われ、他の日本人家族とひきしめ合って暮らす毎日となった。
  年が明け、収容された鎮南港の倉庫で、やっと立つことができて嬉しそうにしていた一番下の弟が、その翌日に発病し、急逝く。りんご箱に入れられ、小高い丘の共同墓地に葬られた。若い母親たちが、多くの乳児が埋葬された土饅頭(どまんじゅう)にお乳を振りかけていた姿が今も忘れられない。
  その後、結核でやせ衰えた上の弟をおぶり、「38度線」を突破し、命からがら疎開先の千葉にたどり着いた。しかし、その一週間後に5歳になった弟は息を引き取った。マラリアに苦しんだ妹もその後、18歳の若さでこの世を去った。
  10年前には、抑留されていたシベリアから生還した父と、下の弟を北朝鮮に埋葬してきたことを案じ続けていた母が相次いで他界した。気がつけば、あの丘の上に眠る弟を知っているのは私だけになった。母の悲願だった北朝鮮への墓参を一日も早く叶うのを願ってやまない」