2013年12月20日(金)

張成沢はいつ、誰に、なぜ粛清、処刑されたのか

 張成沢党行政部長兼国防副委員長(67歳)の電撃処刑は世界に衝撃を与えたが、今もって、いつ、誰によって、なぜ処刑されたのか、肝心な点が不明のままだ。

 張成沢氏は12月12日に国家安全保衛部内の軍事裁判で処刑されたが、逮捕された日は不明だ。ちなみに、処刑された12月12日は前年にテポドン(北朝鮮は人工衛星と主張)発射を強行した日にあたる。

 処刑を急いだ理由は、17日の金正日総書記の命日(二周忌)前に決着を付け、墓前に独裁体制を固めたことを報告する意味合いもあるのだろう。  

 時系列にみると、韓国の国家情報院が張氏の側近である李龍河第一部長と張守吉副部長が「公開処刑された」と韓国情報委員会に報告したのが12月3日で、翌4日には柳吉在統一部長官と金寛鎮国防部長官がそれぞれ張成沢失脚を確認していた。失脚を裏付けるかのように北朝鮮から7日に公開された金正恩記録映画から張氏が削除されていた。

 北朝鮮は8日に政治局拡大会議を開き、張氏の出席の下、党籍を剥奪し、会場から連行したが、あくまで合法性を装うための儀式に過ぎず、張氏はすでにそれ以前に身柄を拘束されていたのは間違いない。部下らが逮捕された後か、ほぼ同時に逮捕、連行されていたのだろう。では、部下らが逮捕されたのはいつ頃なのだろうか。

 そこで注目されるのが、11月20日に金正恩第一書記出席の下で開かれた人民軍第2回保衛員大会である。保衛員は軍部隊内の不満分子や反乱分子を摘発、鎮圧する部署を指す。金第一書記はなんと20年ぶりに大会を召集し、異例にも自ら司会を買って出たのである。 

 大会が、保衛員らの忠誠を取り付ける目的で開かれたことは自明だ。即ち、「張成沢一党」の謀反、クーデータ―の動きを未然に阻止するための大会であることだ。ということは、金第一書記は既にこの時点で叔父の処断を決断していたということになる。

 大会には崔龍海軍総政治局長、処刑を主導した金元弘国家安全保衛部部長のほか、金正恩体制下で起用された金守吉(中将)、趙慶哲軍保衛司令官(大将)、廉哲聖保衛司令部政治局長(上将)、そして労働党で軍人事を担当する組織指導部の黄秉西第一副部長(上将)の6人が同席していたが、そのうちの一人である廉哲聖保衛司令部政治局長は張氏が処刑される前日の11日付の労働新聞に「張成沢一党の処断を我々人民軍に任せてもらいたい」との談話を載せていた。

 金第一書記は11月28日には平壌を離れ、白頭山のある両江道の三地淵にある別荘に移動しているが、叔父の逮捕はおそらくその間に実行されたのだろう。

 では、誰が正恩氏と並ぶほどの実力者である張氏の粛清に動いたかだが、「張成沢解任」を決定した政治局拡大会議で張氏の非理、不正を糾弾する討論の先陣を切ったのが長老の金基南宣伝扇動担当書記だったことを一つとっても、忠臣、重鎮として金日成−金正恩と二代にわたって支えてきた元老グループが三代目の背後にいることがわかる。

 金正日追悼大会(17日)のひな壇をみると、向かって左側には85歳の金永南最高常任委員会委員長を筆頭に84歳の金基南書記と83歳の崔泰福最高人民会議議長ら長老が並んでいた。

 向かって前列右側には元軍総政治局長の李勇茂(88)、元軍総参謀長の呉克烈(83)、元軍総参謀長の金英春(77)ら3人の国防委員会副委員長らが踏ん反り返るように座っていた。そしてこの3人の元老の隣に一人(88歳の楊亨變最高人民会議常任副委員長)挟んで張氏を処刑した金元弘国家安全保衛部部長が陣取っていた。さらに張氏の不正、非理を暴いたとされる党組織指導部の趙延俊第一副部長も前列左側に座っていた。73歳の趙第一副部長は2年前の金正日国葬名簿(226人)では名前さえ載ってなかった。

 米国の媒体である「自由アジア放送」(RFA)は18日、「北朝鮮幹部筋」の話として、「張成沢は自分を除去し、権力を強めようとしている奸悪な家臣らの謀略にひっかかり、弁論の余地もなく、処刑されたというのが中継幹部らの大方の見方である」と伝えていた。

 「奸悪な家臣」とは金正恩第一書記を頂点に白頭山の血統(パルチザンの革命伝統)を継ぐ党・軍内の元老グループである。「白頭山の血統」を継いでいるのは何も金日成一族だけとは限らない。金日成主席の抗日パルチザン時代の部下、及びその子弟らもまた「白頭山の血統」を引き継いた血族でもある。

 パルチザンの家紋ではない張成沢氏は三代続くこれら党・軍内の既得権勢力の利権に手を突っ込んだが故に逆鱗に触れ、粛清されたのではないだろうか。