2014年2月26日(水)

歴代日本国総理の「過去認識発言」と韓国大統領の対応

 過去20年間の日韓関係を振り返ると、うまく行くと思ったら、悪くなったり、悪化すると思いきや、好転したりの繰り返しである。それが、日本も韓国も政権交代の度に同じことが繰り返されている。特に、韓国は、政権末期に強硬姿勢に転じるケースが目立つ。

 朴正煕―全斗煥―盧泰愚による30年以上に及ぶ軍事政権が終息し、1993年2月に韓国で初の文民政権である金泳三政権が誕生した時、その半年後、日本でも自民党長期政権に終止符が打たれ、宮沢政権から細川政権に取って代った。日韓新時代の始まりである。

 政権発足から3か月後の1993年11月、細川護煕総理が訪韓し、金泳三大統領との首脳会談で「わが国の植民地支配によって朝鮮半島の人々が母国語教育の機会を奪われたり、姓名を日本式に改名させられたり、従軍慰安婦、徴用など耐え難い苦しみと悲しみを経験されたことに加害者として心から反省し、深く陳謝したい」と過去の問題に言及。その結果、この年両国間で「未来志向の日韓フォーラム」が創設された。

 細川政権が崩壊した後も自社連立政権の村山富市総理が1995年8月、戦後50周年に際し「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた。私は、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明する」との「村山談話」を発表したことで政権交代があっても日韓関係は影響を受けることはなかった。

 ところが、3か月後の11月、江藤隆美総務庁長官が「村山発言は誤りだ」とし「植民地時代に日本も良い事をした」と発言したことに金泳三大統領が激怒し、以後村山総理との首脳会談を拒否。「今度こそ、日本の悪い癖をなおさせる」と発言し、日韓関係は一気に冷え込んでしまった。

 冷却化した日韓関係の修復に乗り出しのが、後任の金大中大統領で、政権発足年の1998年10月に来日し、小渕恵三総理との首脳会談で「21世紀に向けた日韓パートナーシップ」と題する共同宣言文を発表。金大中大統領は大方の予想に反し、天皇陛下との会見では植民地問題について一切言及しなかった。

 小渕総理もまた「わが国が過去の一時期、韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びを申し上げる」と発言し、「村山談話」を踏襲したことで、日韓関係は修復された。

 金大中政権は橋本政権、小渕政権、森政権、小泉政権と4代の政権を相手にしたが、小泉政権下の2001年4月に「新しい歴史教科書をつくる会」の問題が、さらに同年8月に小泉純一郎総理の靖国参拝問題が発生し、日韓関係は再びこじれることになった。

 金大中政権の次は、盧武鉉政権だが、大統領就任3か月後の2003年5月に麻生太郎自民党政務調査会長が東京大学での講演で「創氏改名は朝鮮人が求めたもの、ハングルは日本人が朝鮮人に教えてあげたものであり、義務教育も日本が始めた。正しいことは歴史的事実として認めたほうが良い」と発言したことが伝わり、韓国側が態度を硬化。それでも翌6月に来日した盧大統領は過去の問題については一切言及せず、小泉総理との間で未来志向の関係を重視する共同声明を出した。

 ところが、2005年2月22日に島根県が「竹島の日」を制定するやこれに反発した盧大統領は3月23日、「これまでは政府間の葛藤を招く外交上の負担や経済に及ぼす影響を考慮し、何よりも未来志向の日韓関係を考えたために自制してきた。しかし、(日本から)返ってきたのは未来を全く考慮しないような行動だ。今はむしろ政府が前面に出なかったことが日本の慢心を招いたのではないかとの疑問が提起されている。これではだめだ。これから政府がやれることはすべてやる。まず外交的に断固対応する」と国民向け談話を発表し、一転強硬姿勢に転じた。

 さらに2か月後の5月に麻生氏が再び英国のオックスフォード大学での講演で「靖国神社参拝は正しく、今後も続けなければならない。靖国神社の軍人がA級戦犯と決定したのは日本ではなく、占領軍が決定したものだ。靖国神社参拝を問題にする国は世界で韓国と中国だけだ」と韓国の対応を批判したことに韓国が猛然と抗議。

 それでも同年8月15日に小泉総理が戦後60周年に際して「わが国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた。歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」との談話を発表したことで鎮静化した。

 ところが、それも長く続かず、小泉総理が2か月後の10月に再度靖国に参拝するや盧大統領は「もうこれ以上、見過ごすことはできない。外交的に断固対処する」と、小泉総理との首脳会談を拒否。日韓シャトル外交を全面ストップさせてしまった。

 金大中―盧武鉉と2代続いた革新政権に別れを告げた韓国は、李明博政権(2008年2月〜2012年1月)が(福田政権−麻生政権―鳩山政権―菅政権―野田政権)と対処することとなったが、李大統領は大統領就任式(2月25日)に福田康夫総理を招待し、日韓首脳外交を復活させる意向を表明した。

 李大統領も就任当初は「日本の政治家の発言に敏感に反応しない。政治家にはそれぞれの意見がある。歴史認識は日本の問題である。問題発言があったとしても謝罪を要求しない」と語っていた。

 就任2か月後の4月に来日した際には「今後は過去にこだわることなく、日本とは未来志向の関係を進めたい」と述べ、福田総理との間で日韓関係を一層成熟したパートナーシップの関係に拡大し、新たな「日韓新時代」を切り開いていくことを確認しあった。

 李大統領は2013年2月に退任するまでの間、7度来日し、また、日本からも福田総理と麻生総理がそれぞれ1度、民主党政権下では鳩山総理が2度、菅総理と野田総理が1度、訪韓するなどシャトル外交は完全復活した。

 特に民主党政権下では管直人総理が2010年8月10日、日韓併合100周年に際して「私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思う。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思う。痛みを与えた側は忘れやすく、与えられた側はそれを容易に忘れることは出来ないものだ。この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」との談話を出したことを韓国政府が高く評価。

 ところが、菅政権の後を受けた保守色の強い野田政権下の2011年12月、来日した李大統領は野田佳彦総理が従軍慰安婦問題で善処しなかったことに失望、反発し、任期最後の年にあたる翌年の2012年8月10日、歴代大統領として初めて禁断の地である竹島に上陸してしまった。

 竹島上陸から5日後の解放記念日(8月15日)の式典で李大統領は「日本軍慰安婦被害者問題は人類の普遍的価値と正しい歴史に反する行為である。戦時女性人権問題として日本政府に責任ある措置を求める」と日本に迫り、日韓シャトル外交を再び中断させてしまった。

 そして、今の朴槿恵政権である。

 朴槿恵大統領も選挙公約では日本とは「協力の未来に向けて共に協議する」と、前任者の竹島上陸で冷却化した日韓関係の打開に意欲を示していた。

 朴大統領は大統領就任10日前、訪韓した河野洋平元衆議院議長との会談で「韓日の緊密な関係こそが北東アジアの経済共同体や東アジア共同体というビジョンを実現する最初の『ボタン』になり得る」と発言し、そのためには「日本が被害者の苦痛を心から理解する立場に立って考えて欲しい」と訴えていた。

 大統領就任式の3日前の2月22日、安倍政権が島根県の「竹島の日」の行事に政務官を派遣したことに反発し、対抗措置を示唆しながら安倍総理の特使としての麻生副総理の大統領就任式への出席を拒まなかったことは、対日関係への意欲の表れでもあった。

 朴大統領は麻生副総理との会談で「韓日間の真の友好関係構築のために歴史を直視し、過去の傷がこれ以上悪化せず治癒するようお互い努力しよう」と呼びかけたのに対して麻生副総理は「米国を見てほしい。米国は南と北が分かれて激しく戦った。しかし南北戦争をめぐり北部の学校では相変わらず『市民戦争』と表現するところがある一方、南部では『北部の侵略』と教える。このように同じ国、民族でも歴史認識は一致しないものだ。異なる国の間ではなおさらそうだ。日韓関係も同じだ。それを前提に歴史認識を論じるべきではないだろうか」と反論。

 さらには「両国の指導者が慎重な発言と行動を通じ、信頼を持続的に構築していくことが重要である」と訴えたにもかかわらず、2か月後、麻生副総理が靖国に参拝したことで朴大統領はメンツを潰され、完全にプッツンしてしまった。

 以降、日韓関係は今日の事態にいたっている。