2014年2月7日(金)

日本が冬季五輪のメダル獲得数で韓国に勝てない理由

 ソチ五輪が開幕した。

 日本は113人の選手が出場する。メダル獲得目標は過去最多だった1998年の長野大会の時の10個(金5個、銀1個、銅4個)。できればそれを上回りたいところだが、前回のバンクーバーでは半分の5個(銀3個、銅2個)に終り、金メダルはゼロだった。

 日本は長野大会以降の3度の冬季五輪で金メダルを取ったのは、2006年のトリノの時の1個だけだ。一方のライバルの韓国はどうか。

 今回は、日本よりも42人少ない71人の選手が出場する。目標は金メダル4個以上で、3大会連続のトップ10入りを目指している。

 AP通信の予想では、韓国はフィギュアスケート、ショートトラック、スピードスケートなどの種目で金6個、銀3個、銅3個で総合順位7位に入るとのことだ。過去の実績からすればこの数字は可能かもしれない。

 前回のバンクーバーでは金6個、銀6個、銅2個の合計14個で、総合順位は5位。前々回のトリノでも金6個、銀3個、銅2個の11個を獲得し、総合で7位にランクされている。今や冬季五輪では日本を抜いてアジアNo.1である。

  日本は長野五輪を最後に、アジアの盟主の座を韓国に明け渡したままだ。もはやメダル獲得数で韓国に歯が立たなくなった。

 人口では韓国よりも2.5倍も多く、経済力でも韓国を圧倒しており、選手団の数も韓国よりも多く、冬の競技ではアジアの先進国である日本が後進国の韓国に引き離されている今日の現状は嘆かわしい。不振に終わる度に施設がどうのこうの、練習量がどうのこうのと関係者は自慰しているが、敗因は果たしてそれだけだろうか。

 前回のバンクーバーで金メダルがゼロで終わった時、石原東京都知事(当時)が「銅メダルを取って狂喜する。こんな馬鹿な国はない」と、銅メダルを取っただけで大騒ぎする国内の報道に釘を刺していたが、「石原嫌い」の韓国人の多くは彼の発言を「もっともだ」と共感したに違いない。

  惨敗したのに、メダルを取れなかったのに「国民に勇気を与えた」とか「勇気をもらった」という毎度おなじみの言葉が連呼されていたが、正直これには違和感を感じぜざるを得ない。結果として、国民の、関係者の期待に応えられなかったわけだから正確に言えば「失望」と「落胆」を与えたことになる。

  仮に、韓国が金メダルなしで終わったならば、バンクーバーでキム・ヨナが浅田真央に負けて、金メダルを逃していたなら、韓国のメディアは「失望」「落胆」「屈辱」という表現を使っただろう。韓国の選手にはこうしたプレッシャーがあるからこそ、それを跳ね除けるだけの精神力とタフさが逆に培われているのではないだろうか。

 もちろん、メダルを取れなかった、あるいは入賞できなかった選手の誰もが全力を尽くし、精一杯頑張ったのは誰もが認めるところだ。また、スポーツというものは、勝敗に関係なく、懸命にプレーする姿に誰もが感動を覚えるものだ。それでも選手が国民に「勇気」を与えたことには、国民が選手から「勇気」をもらったことにはならない。

  日本では誰かが「勇気を与えた」と言えば、それに右倣えする風潮がある。どこか一社ぐらいは、あるいは解説者やコメンテーターの中で一人ぐらいは期待を裏切った選手には今後のために叱咤しても良さそうなものだ。選手は叩かれ、それをバネに発奮してこそ、大成するものだ。期待しているが故の叱咤こそが、選手への本当の愛情というものである。

  もちろん、期待を裏切ったことで選手がバッシングに合わないよう、メダルや入賞を逃しても、「勇気を与えた」とか「勇気をもらった」と報道することで選手を庇おうとする温情は理解できないわけではない。それが、日本の良き国民性かもしれない。日本人らしいと言えば、日本人らしい。

  それでも、石原さんではないが、銀や銅メダル、入賞で良かったと言っているようでは、金メダルには手が届かないだろう。五輪は参加することに意義があると思って、出場しているのならば、それも良し。しかし、現実には多くの国民はメダルを、中でも金メダルを望んでいる。それこそ、勇気をもらえるからだ。

 バンクーバーで金メダルを逃した真央ちゃんも、4位に終わった女子モーグルの上村選手も悔しさを表情に表し、また口にしていたが、この気持ちがとても大事だ。4年前の悔しさを忘れていなければ、今回のソチでは必ず望みが叶い、金メダルを取れるだろう。

 ソチ五輪ではアジアの盟主であった日本に奮起してもらい、韓国と並んで是非ベスト10に食い込んでもらいたいものだ。