2016年2月18日(木)

 金第一書記は軍部を完全に掌握しているのか

処刑(?)された李英鎬、玄永哲、李永吉将軍


金正恩第一書記と軍将軍らとの関係が微妙だ。「侮られているのでは」との金第一書記の懐疑心と、「権益や人事で軍よりも党を優遇している」との将軍らの不満が交錯し、ここにきて幾つかの「異変」が起きている。

まず、1月下旬から2月1日にかけて李永吉総参謀長が電撃的に解任されたことだ。分派活動が理由で粛清されたと伝えられているが、処刑の可能性も指摘されている。処刑が事実なら、総参謀長の処刑は金正恩政権になってこれで3人目となる。

次に、李総参謀長解任直後の2月2−3日に開催された党中央委員会と人民軍党委員会の連合拡大会議で金第一書記が「人民軍隊は最高司令官の命令一下、一つとなって最高司令官の指示する方向だけ動くように」と自ら訓示したことだ。

昨年労働新聞に「人民軍指揮官らは最高司令官にはたった一言、『かしこまりました』とだけ言えば良い」との記事が掲載されていたが、金第一書記自ら一般席に座っていた軍首脳らに向かって見下ろすかのように「自分の命令に服従せよ」と演説をぶったのは、祖父の金日成主席の時代も、父・金正日総書記の時代もなかったことだ。

金第一書記は唯一指導体系の確立の重要性を強調し、一心団結を破壊し、蝕む分派行動を徹底的になくす闘争を進めるよう会議で強調していたが、直前の李永吉総参謀長の電撃解任・処刑(?)が影響していることは間違いない。

また、「光明星―4号」発射の当日(7日)、発射場の東倉里から列車で戻った金第一書記を党最高幹部らが平壌駅で花を手にして整列して出迎えていたが、ここでも明らかに「異変」がみられた。

金第一書記は金永南最高人民会議常任委員長、朴奉柱総理、崔龍海書記らとはにこやかに接していたものの軍幹部らには実に素気なかった。党組織指導部出身の黄秉西軍総政治局長と組織指導部の実行部隊である国家安全保衛部の金元洪部長だけには笑顔で応えていたものの尹東鉉人民武力部副部長が敬礼しても見向きもしなかった、スルーされた軍幹部の中には呉克烈国防委員会副委員長もいた。また不自然に映像からカットされた将軍もいた。

ちなみに呉国防副委員長は金正日総書記とは兄弟のような関係にあった軍の元老である。空軍司令官から軍総参謀部に入り、1979年から1988年まで11年間総参謀長のポストにあった軍実力者の一人でもある。中国国際戦略学会の厳江楓副会長は訪中した自民党の加藤紘一元幹事長との会談で「国防委員会の呉克烈副委員長は人望があり、軍を統括している。呉氏の下で不協和音が生じることはあり得ない」と明言したほどしっかりと監督できなかったことへの不満の表れなのかもしれない。

さらに、翌日の2月8日は朝鮮人民軍正規軍創建日にあたるのに今年は、昨年に比べ主だった行事がほとんどなかったことだ。

人民軍正規軍創建日が復活した昨年は人民武力部による報告大会があった。黄秉西軍総政治局長、玄永哲人民武力相、そして李永吉総参謀総長ら将軍らが勢揃いしていた。創建日を祝う舞踏会もあった。しかし、今年は、その種の行事はなく、静かだった。大々的に祝えない理由でもあったのだろうか?

その一方で、「光明星節」(金正日生誕日)直前の14日、陸海空将兵らによる金第一書記に忠誠を誓う大会が開かれ、軍人に金第一書記への忠誠を呼び掛けていた。政権発足当初ならいざ知らず、5年も経つのに軍人らに改めて忠誠を誓合わせなければならない突飛な事情でもあるのだろか?

極め付きは、父・金正日総書記の生誕日である2月16日の恒例の錦繍山太陽宮殿参拝が例年と異なり、軍首脳らを帯同しなかったことだ。

昨年も一昨年も人民武力相や総参謀長ら軍指揮官らだけを引き連れて参拝していた。今年は、李雪主夫人だけ伴って参拝していた。昨年同様になぜ軍指揮官らを帯同して訪問しなかったのだろう?

これら一連の流れは、李永吉総参謀長の「粛清」と決して無縁ではない。

金正恩政権の5年間で3人の総参謀長が解任、処刑「?」されている事実からして金第一書記と人民軍総参謀部との間には明らかに不協和音がある。

父・金正日総書記は17年間の在任中(1994年7月〜2011年12月)総参謀長の交代は崔光(1988年2月〜1995年10月)―金英春(1995年10月〜2007年4月)―金格植(2007年4月〜2009年2月)―李英鎬(2009年2月―2012年8月)と僅か4人だ。金格植大将は1年8カ月と短かったが、金英春次帥は12年間も総参謀長のポストにあった。李英鎬次帥も金正恩政権下(2012年1月〜)で失脚するまで3年5カ月間、その座にあった。

ところが、今年でまだ5年目の金正恩政権下では総参謀長は李英鎬―玄永哲―金格植―李永吉―李明秀とすでに5人目だ。1年に一人の割合だ。李英鎬次帥は8カ月で、後任の玄永哲(2012年8月〜2013年5月)も9カ月で解任されている。金格植大将(2013年5月〜2013年8月)に至っては僅3か月。最長期間は李永吉大将(2013年8月〜2016年2月)の2年6カ月。人民武力相に転出した玄永哲大将は就任から9カ月後の2015年4月には「処刑された」と伝えられている。

人民武力相も総参謀長同様に金正恩政権下ではいずれも短命に終わっている。

金正恩政権下では金永春(2009年2月―2012年4月)―金正覚(2012年4月〜2012年10月)―金格植(2012年10月〜2013年5月)―張正男(2013年5月〜2014年6月)―玄永哲(2014年6月〜2015年4月)―朴永植(2015年4月〜)とすでに6人目だ。金英春次帥は金正日総書記が死去するまで3年2カ月その座にあったが、金正恩政権発足から4か月で更迭されている。金正覚次帥は8カ月、張正男大将は1年1か月、玄永哲大将も10カ月しかもたなかった。

ちなみに金正日政権は17年間で僅か4人だ。呉振宇元帥(1976年5月〜1995年2月)はなくなるまで19年間、そのポストに会った。後任の崔光(1995年10月〜1997年2月)次帥は1年4カ月と短いが、任期中に死去したことが原因。3人目の金益鉄次帥は1997年2月から2009年2月まで12年間も在任していた。

軍を政治主導する軍総政治局長のポストが党人の崔龍海書記から同じ党人の黄秉西(前党組織指導部第一副部長)への交代1回のみという事実を勘案すれば、総参謀長と人民武力相の頻繁な入れ替えは金第一書記の職業軍人への懐疑心の表れとも言えなくもないが、裏を返せば、軍部の間に金第一書記への不満が鬱積していることへの表れとも言える。

「先軍政治」下の金正日政権下では総参謀長も人民武力相も厚遇されていた。例えば、李英鎬総参謀長は政治局常務委員かつ党軍事副委員長のポストにあった。また、金英春人民武力相も政治局員兼国防副委員長のポストに会った。二人とも軍の階級は次帥だった。

しかし、金正恩政権下では党組織指導部から出向の黄秉西軍総政治局長が政治局常務委員に選出され、玄永哲人民武力相も、李英吉総参謀長も政治局員候補止まりで政治局員にも選出されてない。軍の階級でも黄秉西軍総政治局長が次帥なのに対して二人とも大将止まりだ。

金正恩政権は5月に36年ぶりに党大会を開催し、名実ともに「金正恩時代」の到来を告げるつもりだが、そのためには足場を固めることが先決のようだ。