2016年6月4日(土)

 モハメッド・アリの知られざる平壌訪問

全盛期の頃のモハメッド・アリー


世界のスーパースターの一人であった元プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのカシアス・クレイことモハメッド・アリが亡くなった。

日本を含め世界中がスポーツ界の英雄の悲報を大々的に伝えている。

18歳の若さでローマ五輪に出場し、金メダルを取ったこと、22歳で当時のヘビー級チャンピオンのソニー・リストンに挑戦し、番狂わせを演じ、最年少で世界王座に就いたこと、黒人差別反対運動に関わったこと、ベトナム戦争に反対し、徴兵を拒否し、チャンピオンベルトを剥奪されたこと、4年間のブランク後、カムバックし、1974年には最強のチャンピオンと称されていた無敗のジョージ・フォアマンにアフリカのザイールで挑戦し、奇跡の逆転勝利で王座に返り咲いたこと、さらには1996年のアトランタ―五輪で聖火台の点火者を務めたことなど華々しい業績や活動が映像や写真と共に紹介されている。しかし、彼のキャリアの中で米国と国交のない北朝鮮を密かに訪れていた事実を知る人はそう多くない。

実は今から21年前、まだ53歳の時、即ちアトランタ―五輪の前の年の1995年にアリは一度だけ平壌を訪れている。参議院議員のアントニオ・猪木氏が主催した「平和のための平壌国際体育・文化祝典」の特別ゲストとして招かれたのだ。

祝典の正式名称は「平和のための平壌国際スポーツ及び文化祭典」で当時、催し物はメインのプロレスにテコンドー、マスゲーム、それに芸術公演や民芸展示会、民族遊戯、野外舞踏会など七つの行事がセットになっていた。前年に北朝鮮にあっては「神様のような存在」であった金日成主席が死去し、喪中期間中ということもあって国内が沈んでいたことから元気、活気を取り戻す一環として、プロレス興行などのイベントが容認された。

マスゲームは5万人規模で4月22日から5月7日まで連日行われ、プロレスは28日から29日の2日間行われた。祭典には外国から1万5百人が訪れ、ホテルの部屋が足りず、一般の家庭にホームステイさせたとの逸話もあるほど賑わい、盛大であった。

日本からは祭典に河内音頭の継承者である河内家菊水丸や歌手の松村和子さんらが招かれたが、北朝鮮はプロレスラー以外にも金正日総書記の二人の息子(正哲と正恩)の趣味がバスケットであったこともあってNBAのマイケル・ジョーダンの訪朝の仲介を猪木氏に依頼していた。今や後継者となった正恩委員長は当時12歳で、翌年の1996年にスイス・ペルーンへの留学を控えていた。

結局、マイケル・ジョーダンは本人が乗り気でないことから見送られ、北朝鮮でも評価の高かったアリ一人だけとなったが、すでにパーキンソン病に冒されていたことや訪問先が国交のない北朝鮮ということもあって米政府は直前まで許可を出さなかった。

そのため経由地の日本で訪朝断念の記者会見をやる予定だったが、どういう訳か土壇場で米政府が許可を出したことで成田に到着した翌日、名古屋に向かい、名古屋からチャーター便で平壌に向かうことになった。

仲介者の猪木氏によると、夫人に替わって付き人としてカメラマンが一人同行していたが、アリは人の手を借りなければ、バスに乗るのも、歩くのも困難なぐらい体調が良くなかったそうだ。

ところが、平壌の空港に着いたら、いきなり報道陣のフラッシュを浴びたせいか、それで脳が活性化したのか、脚光を浴びた現役時代が蘇ったのか、定かではないが、急に動作が軽やかになったそうだ。平壌滞在中に朝鮮を建国したと言われる檀君の墓、檀君陵を訪れた際にアリは人の手を借りず、長い階段を一気に上り、猪木氏ら同行者らをあっと驚かせたようだ。

訪朝直前までバスの乗り降りがやっとだったアリが一時的にせよ復活し、アトランタ―五輪で聖火台の点火者に指名されたのは、当時日本に来ていたアトランタの市長がこのことを知っていたからだと猪木氏は述懐している。

さて、北朝鮮はアリの訃報を伝えるのだろうか?