2016年5月24日(火)
「張成沢粛清・処刑」に与した外交ブレーンの姜錫柱氏
円の人物が姜錫柱氏、上段左から5人目が張成沢氏
食道がんで死去した姜錫柱(カン・ソクチュ)元朝鮮労働党政治局員兼元書記(76歳)の国葬が5月22日に平壌で執り行われた。
姜錫柱氏はすでに報道されているように1994年10月に米国と締結した米朝枠組み合意に署名した北朝鮮の交渉代表であった。また、2000年の金大中大統領との南北首脳会談、2001年のロシアのプーチン大統領との首脳会談、そして2002年9月の小泉純一郎総理との日朝首脳会談に同席するなど長年、故金正日総書記の外交ブレーンとして、外交司令塔として北朝鮮の外交を取り仕切ってきた。
北朝鮮の最高人民会議常任委員会は姜氏について「首領に対する高潔な忠誠と高い実力で、長い間わが党の偉業を推進してきた」と称え、葬儀委員長を務めた序列5位の崔竜海氏も「姜錫柱同志のような真の革命家、能力ある政治活動家を失ったことは、党と人民にとって大きな損失だ」と哀悼の意を表した。単なる外交官としてではなく、党最高幹部の一人としての評価である。
北朝鮮当局は訃報を伝え際「姜錫柱同志は主体革命偉業継承の重大な歴史的時期に政治局員、内閣副総理、党書記として金正恩同志の唯一領導を忠実に受け入れた」と、党幹部としての姜氏の「限りない忠誠心」と「確固とした革命的原則」を称えていた。
「主体革命偉業継承の重大な歴史的時期」は1994年の米国との核合意を指しているようにも見えるが、金正恩政権発足翌年の2013年の金委員長の後見人だった張成沢政治局員兼国防副委員長の「謀反」もまた北朝鮮にとっては「主体革命偉業継承の重大な歴史的時期」であったはずだ。
当時実質権力No.2の座にあった張成沢氏は2013年12月8日に開かれた党中央委政治局拡大会議の場で突如「反党分子」として糾弾、断罪され、「国家反逆罪」で処刑されたが、糾弾の先鋒に立ったのが「闇の軍団」と称された古参の政治局員らだった。
先陣を切った金己男政治局員は張氏の「反党行為」を、続く朴奉柱首相は「国の経済活動と人民の生活向上に莫大な支障をきたした」として「反人民的犯罪」を、そして政治局拡大会議を仕切った党組織指導部の趙延俊第一副部長兼政治局員候補は「権力を乱用してあらゆる不正腐敗行為を行った」として不正を暴き、張氏を追及した。
さらに、金英春元人民武力相もひな壇に上がり、「人脈関係にある軍幹部や側近たちを動員して政変を起こそうとした」(裁判記録)と張氏のありもしない「謀反」をでっちあげたが、姜錫柱氏もその一人で、張氏の外交での越権行為をやり玉に挙げていた。姜氏が「張成沢追い落とし」に加担したのは外部には知られてない歴史的事実である。
国家安全保衛部による特別軍事裁判で明らかにされた罪状によれば、張氏は羅先経済貿易地帯と中朝国境地帯の黄金坪、威化島経済地帯共同開発・共同管理のための中朝共同指導委員会の北朝鮮側委員長として当時、対中関係を仕切っていた。
張委員長が処刑される1年4カ月前の2012年8月に「第3回黄金坪・羅先(羅津・先鋒)市共同開発のための朝中開発合作連合指導委員会会議」に出席するため訪中した際には北京で胡錦濤国家主席、温家宝首相ら中国首脳部と会談を行なっていた。
また、この年(2012年)11月には国家体育指導委員会を設立し、その委員長に就任し、体育を通じ、外交にも深く関与していた。翌年の2013年11月には委員長の肩書で訪朝したアントニオ・猪木氏と会談したのは周知の事実である。
特別軍事裁判の罪状には張氏を「部署と傘下部門の機構を大々的に拡大しながら国の全般的事業を掌握しようとした」とか「石炭をはじめとする貴重な地下資源をむやみやたらと売り飛ばした」と書かれてあった。また、「党と国家の最高権力を簒奪するための第一歩として内閣総理の地位に就き、外部世界に改革者として新政権を外国に認定させようとした」とも書かれてもあった。石炭を売り飛ばした先が、また「外部世界」が「中国」を指していることは言うまでもない。
張氏は2013年初めに中国指導部に北朝鮮を党中心ではなく、内閣中心構図に変えるとの内容の手紙を伝達したと伝えられるほど中国と内通していたとされている。
党長老らに糾弾された張氏は全ての職務を解かれ、一切の称号も剥奪され、党からも除名、追放され、そして大勢の同僚、同志らの前で連行され、早くも4日後には処刑されてしまったが、上記の写真は政治局拡大会議で前列に座っていた姜錫柱氏が張成沢氏を糾弾するため発言を求めている証拠写真(姜錫柱氏の左隣が楊亨變政治局員、一人置いて金英春政治局員、上段左から5人目が張成沢氏である)