2016年5月28日(土)

 米国に亡命していた「金正恩の叔母」の18年目の「証言」

子供の頃の金正恩委員長と実母・高容姫


米国に亡命していた金正恩党委員長の叔母である高容淑とその夫の李剛(仮名)が18年目にして米紙「ワシントンポスト(WP)」(5月27日付)とのインタビューに応じ、ついにその重い口を開いた。

高容淑は2004年5月に乳癌で亡くなった金正恩委員長の実母・高容姫よりも6つ下の1956年生まれで、1960年初期に父母に連れられ姉、兄らと一緒に出生地の大阪から北朝鮮に渡った在日朝鮮人帰国者である。

高容淑は金正恩委員長の実兄(正哲)が1992年にスイスのペルーンに留学した際に同行して一緒に暮らし、金委員長が兄の後を追い、1996年に留学した際には米国に亡命する98年までの約2年間、親代わりとして生活の面倒を見ていた最も近い肉親である。

高英淑は夫の李剛こと「朴剛」と共にペルーンから5km離れたリバフィールドにある2階建の豪華邸宅で甥らの世話をしていた。当時、高英淑は「鄭イルソン」名義の外交旅券を持っており、邸宅の所有者も「鄭イルソン」となっていた。

高英淑夫妻は20時間に及ぶWPとのインタビューで1998年にスイスのペルーンの米大使館に駆け込み亡命申請し、数日後にフランクフルトの米軍基地に移送され、そこで数か月間調査を受けたことを証言している。米大使館に駆け込んだのはこの年の5月で当時は「金正日の秘密をあまりにも知り過ぎたため、殺されるかもしれない」と囁かれていた。

二人はWPとのインタビューで亡命の動機について「歴史的に強力な指導者と近い人物は他の人物のために意図しない風聞に引き込まれてしまうことがよくある。我々はそうした風聞から距離を置いたほうが良いと考えたからだ」と述べ、北朝鮮政権内部の暗闘に巻きこまることによる身の危険を感じてのものであったことを明らかにした。

しかし、亡命先がスイス、あるいはフランスなど欧州ではなく、よりによって北朝鮮にとっては不倶戴天の敵国・米国を選んだのは腑に落ちない。そのことについてはインタビューでは触れられてない。

実は、二人は亡命を申請する前から偽造パスポートを使用して米国を数回訪問していたようだ。そのことは、亡命から7年後に朝鮮日報(2005年1月19日付)が「米情報機関の調査の結果、朴某と鄭イルソンは偽造パスポートを使用して米国を数回訪問していた」と報じていた。

例えば、1997年にチェコのアメリカ大使館に2人の男女からビザの申請が出されていたが、当時男性は金正日秘書室所属の「朴勇武」と名乗っていた。この「朴勇武」が他ならぬ高英淑の夫の「李剛」こと「朴剛」ではないかとみられている。

「朴剛」は当時、韓国のメディアで金正日秘書室所属の密費担当秘書と報じられていた。「李剛」もまた、昨年12月、韓国のKBSとのインタビューで米国に亡命するまでの約20年間、義兄の金正日総書記を補佐し、「金正日邸宅の総責任者」としてファミリーの面倒をみてきたと証言している。「朴勇武」と「朴剛」そして「李剛」は同一人物のようだ。

「月刊朝鮮」(2003年9月号)は、故金正日総書記がスイス銀行に40億ドルの秘密資金を隠し、米国やイギリスの証券取引所でスイス銀行の秘密資金を運用し、稼いでいる実態を高英淑夫妻が米政府に詳細に伝えたと報じていた。これにより金総書記の「スイス銀行の隠し金」が表面化したが、夫婦はWPに対してCIAから20万ドルの定着金を貰って米国で新たな生活をスタートさせたと証言している。現在は苦労しながらニューヨークでクリーニング店を営んでいるようだが、巨額の秘密資金に携わっていた者としてはいささか生活が質素過ぎる。

米情報当局は金ファミリーの一員が亡命したことで当初、核に関する情報を含め相当な機密情報を期待したようだが、当人らは軍事や国防に関しては何も知らないと語ったそうだ。同紙とのインタビューでも「(金正恩委員長の)幼年期の私生活については語ることができるが、核兵器や軍事分野については何一つ知らない」と述べている。

WPとのインタビューで興味深かったのは金委員長の幼年の頃の話だ。

何よりも、金委員長の出生年がこれまで伝えられていた「1983年」ではなく、「1984年」と言明したことだ。

「1983年生」は金正日ファミリーにお抱え料理人として10年近く仕えていた藤本健二氏が著書で明らかにしたことから「定説」となっていた。1984年生まれの根拠について高英淑は「正恩は私の長男と同じ年に生まれ、生まれた時から一緒に遊んでいた」し、「おむつも替えてやった」と述べている。高容淑夫妻には現在32歳と、29歳の息子二人と23歳の娘がいるが、長男が正恩委員長と同じ年ならば、次男もまた正恩氏の実妹である予正党副部長と同じ年ということになる。

高容淑夫妻は、幼いころの甥の性格や気質について「困らせ者というわけではなかったが、気が短くて忍耐力に欠けていた」「母親から叱られると、口答えはしなかったが断食などで抗議した」と我儘、強情なところがあったと証言している。

その一方で、「ゲーム械が好きで、船がどうやって水に浮いているのか、飛行機がどうやって空を飛んでいるのかなどについて関心を持っていた」と好奇心旺盛な子供であったとも語っている。

権力継承に関しては、8歳の誕生日を迎えた1992年に金党委員長に将星たちが深くお辞儀をするなど忠誠を誓っていたことを明らかにし、「金正恩は周りからこのような待遇を受けていたので、普通の人のように育つのは不可能だった」とも語っている。

二人が今回、米メディアのインタビューに応じた理由については「いつの日か祖国に戻りたい」との希望と、米国のことも、北朝鮮のこともよく知っているので米朝の橋渡しをしたいとの想いが入り組んでいるからだと語っていた。