2016年5月4日(水)

 北朝鮮は党大会をなぜ36年間も開けなかったのか

 北朝鮮の執権党である労働党は5月6日に第7回大会を36年ぶりに開催する。本来は1986年に開催予定だった。なぜ、36年間も、それも金正日時代(1994年7月―2011年12月)にも開催できなかったのか?

 朝鮮労働党規約では党大会は5年に一度の開催となっている。しかし、第6回までをみると、1回(1945年10月)から2回(1948年3月)までは2年5カ月、2回から3回(1956年4月)までは8年1か月、3回から4回(1961年9月)までは5年5カ月、4回から5回(1970年11月)までは9年2カ月、そして5回から6回(1980年10月)までは約10年かかっている。そして、前回の第6回大会から今回の第7回大会(2016年5月)までは36年も間を置いたことになる。

 第7回党大会は1986年に開催の予定だった。故金日成主席が1983年7月に訪朝したペルー人民革命同盟代表団との会見で「我々は1985年まで社会主義経済建設の10大展望目標を達成し、1986年に第7回党大会を開催する」と公言していたからだ。だが、今日まで開けずじまいだった。

 1.1986−1990年
 1986年に開催できなかったのは、第6回党大会で示された経済目標を達成できなかったことに尽きる。10大展望目標の核心である▲電力1000億kw▲石炭1億2000万トン▲鋼鉄1500万トン▲非鉄金属150万トン▲セメント▲穀物1500万トンの生産と▲30万ヘクタールの海面干拓の何一つ目標をクリアできなかった。穀物と電力は目標の3分の1にも達しなかった。

 仕切り直しして、1987年に第3次7ヵ年経済計画(1987−93年)を発表し、「全ての人民が白米に肉のスープを食べ、絹の服を着て、瓦葺の家で暮らすことできるようにする」と国民に約束したが、この計画も頓挫した。年平均7.9%の成長率を目標に掲げたが、スタートの年に早くも3.3%と躓き、以降1988年には3.0%、1989年には2.4%、そして1990年には建国以来初のマイナス成長(−3.7%)を記録するはめとなった。

 1980年代までは韓国が朴正煕―全斗煥軍事独裁政権下に置かれていたことで外交分野では北朝鮮が優位に立っていたが、第3次経済計画がスタートした1987年に大韓航空機爆事件を引き起こし、翌88年にソウルで五輪が開催されたことで形勢が逆転。さらに翌1989年にはベルリンの壁が崩壊し、兄弟国の東ドイツが消滅し、ルーマニアなど東欧社会主義諸国が相次いで民主化され、社会主義市場が消滅したことで外交的にも経済的にも大きなダメージを受けた。

 2.1991−1995年
 特に全体の貿易量の60%を占めていたソ連が1990年に韓国と国交を樹立し、1991年にはゴルバチョフ大統領が、またソ連からロシアに変わった1992年にはエリツィン大統領が訪韓し、北朝鮮との政治、経済、外交関係を清算したことも痛手となった。

 さらに追い打ちをかけるかのように同盟国の中国までもが1992年に韓国と国交を樹立し、1994年には李鵬首相が、1995年には江沢民主席が相次いで訪韓したことも堪えた。北朝鮮も1990年に金丸信自民党副総裁の訪朝を仕掛け、1991年には日朝国交正常化交渉にこぎ着けたが、交渉は頓挫。

 1993−94年にかけては核問題をめぐる米国との対立が戦争一歩手前の状況に陥り、長期間緊張状態が続いた。核危機を切り抜けたかと思いきや、建国の父・金日成主席が1994年7月に死去し、北朝鮮は1997年までの3年間、喪に付せざるを得なかった。

 金正日政権発足の翌年、1995年には集中豪雨と大洪水に見舞われ、全郡の70%にあたる145の郡が浸水し、全人口の4分の1にあたる520万人が被災。被害総額はGNPの4分の3にあたる150億ドルに達した。この年から北朝鮮は国民に「苦難の行軍」を強いた。

 3.1996−2000年
 北朝鮮は未曽有の飢饉に瀕し、金正日書記(1997年に総書記)までもが1996年12月の非公開演説で「我々は食糧問題で無政府状態にある」と嘆いた。1995−97年の3年間で少なくとも100万人の餓死者が発生した。金日成時代にはほとんどなかった韓国への亡命者も続出し、1996年には北朝鮮のミグ19のパイロットが、97年には党最高幹部の一人である黄ジャンヨプ労働党書記までもが韓国に亡命し、金正恩体制に衝撃を与えた。

 1998年には日本海に向けて発射したテポドンミサイルが日本列島を飛び越え、1999年には北朝鮮の工作船が日本海に出没したことで日朝関係も悪化した。南北でも1999年に黄海(西海)で南北艦船による銃撃戦が起き、軍事的緊張が高まった。

 2000年に北寄りの金大中大統領を相手に初の南北首脳会談を開き、南北関係改善に乗り出し、またオルブライト米国務長官の訪朝を機にクリントン政権との間で対話を進めたことで朝鮮半島につかの間のデタントが訪れたが、この年の大統領選挙で共和党のブッシュ候補が当選したこともあってそう長くは続かなかった。

 4.2001−2005
 2001年に登場したブッシュ政権が北朝鮮をイラクと並ぶ「悪の枢軸」との烙印を押したことで米朝関係は「冷戦」状態に逆戻り。ブッシュ政権は2002年に北朝鮮による濃縮ウランの開発を問題にし、クリントン政権下で1994年に交わされたジュネーブ合意をご破算にし、北朝鮮に供与を約束した軽水炉の工事を中断。反発した北朝鮮は2003年1月、NPTからの脱退を宣言。

 金正日政権は米朝関係が険悪化するや、日本との関係改善に乗り出し、2002年に小泉総理との首脳会談を実現。国交正常化に伴う賠償金という名の経済協力欲しさに金総書記はそれまで否認していた日本人拉致を認めた。しかし、思惑は外れ、拉致問題の未解決を理由に日本政府は2005年に対北経済制裁を始動。

 北朝鮮は低迷する経済の立て直しを図り、2002年7月には▲レートの引き上げ▲配給食糧の有料化(配給制の中止)▲無料住宅の有料化▲無料社会保障の縮小▲公共料金の引き上げを目玉とする経済管理改善措置を取ったが、失敗に終わった。

 2003年にイラク戦で勝利し、サダムフセイン政権を打倒したブッシュ政権は「次は北朝鮮」と威嚇。北朝鮮は猛反発し、2005年2月に核保有を宣言。激怒したブッシュ大統領は2か月後の4月に「金正日のような暴君による暴政を終息させる」と対決姿勢を鮮明にし、2005年9月、マカオのバンコ・デルタ・アジア銀行の北朝鮮口座を凍結した。

 5.2006−2010年
 核保有宣言でブッシュ政権への反発を強める北朝鮮は2006年に衛星と称して長距離弾道ミサイル「テポドン」を発射、さらには史上初の核実験に踏み切った。2009年にも再度、ミサイル発射と核実験を断行。このため国連安保理は2006年、2009年と二度にわたって経済制裁を科した。これにより経済再建のめどが立たなくなってしまった。

 慢性的な経済の困窮により2007年12月の時点での韓国への脱北者は1万人を突破していた。ブッシュ政権を見限った北朝鮮は盧武鉉大統領を相手に2007年に首脳会談を行うなど関係改善の意欲を見せたが、時すでに遅しで、この年の12月の大統領選挙で保守派の李明博大統領が当選したことで南北関係も停滞。

 李明博政権が正式に発足した年の2008年7月に金剛山で韓国人観光客が射殺される事件が発生。南北関係が悪化し、北朝鮮の外貨収入源となっていた金剛山観光が中断。2010年には北朝鮮による韓国の哨戒艦撃沈事件や延坪島砲撃事件が立て続けに起き、韓国は北朝鮮に経済措置を発動した。

 韓国からの経済支援と協力を絶たれた北朝鮮は2009年に思い切って貨幣改革を断行したもののモノ不足や物価の急上昇を招き、国内が大混乱。貨幣改革失敗の責任を取らされ、朴南基党計画財政部長が処刑された。

 「主体思想」の旗印の下、自立経済、自給自足を原則とし、「コメは社会主義」と唱えてきた北朝鮮は国際社会の支援なしでは自力で食糧問題もエネルギー問題も解決できない状況にまで追いやられ、2008年に脳卒中で倒れた金正日総書記もとうとう党大会を開催できぬまま3年後の2011年12月に他界した。

 そして、今、三代目の金正恩第一書記は政権発足(2012年4月党第一書記就任)後に経済成長率が1%ながらプラスに転じたことや、米国に立ち向かうことのできる核とミサイルを手にしたことで父親が叶わなかった第7回党大会を開催しようとしている。