2021年8月17日(火)

 北朝鮮のタリバン政権承認は早い! 知られざる北朝鮮とタリバンとの関係

 アフガニスタンはガニ政権が崩壊し、20年前に除去されていたタリバン勢力が首都を制圧し、政権を奪還したことで大混乱に陥っている。

 「アフガン急変」により米国をはじめガリ政権を支えてきた国々の大使館員らの大脱出が始まったが、韓国もそのうちの1か国で、鄭義溶外相が現地駐在の大使に「一刻も早く出国せよ」との指示を出していた。

 間もなくタリバン政権が正式に発足するが、タリバン政権の「過去」を知る米国や西側諸国は「報復」「テロ」「無法」「破壊行為」の再現を恐れ、タリバン政権の復活に戦々恐々となっているが、北朝鮮はアフガニスタンには大使館を置いておらず、アフガン情勢については沈黙を守ったままだ。同盟国の中国がタリバン政権の復帰を歓迎していると伝えられているが、北朝鮮もまた同様であろう。

 北朝鮮はアフガニスタンとは1973年に大使級外交関係を結んでいるが、タリバン政権は承認していなかった。米国から軍事支援を受け、アフガンに侵攻した「同盟国」ソ連と戦った「反共勢力」とみなしていたことも理由の一つだった。しかし、2001年の米国の武力によるタリバン政権駆逐以降はタリバン勢力には「反米」「反外勢」という一点で「連帯」を表明していた。

 タリバン政権を承認していないこともあってアフガニスタンとは直接的な軍事協力関係はなかったもののパキスタンを経由して武器が渡っていた。米国は1997年8月に米国に亡命した対中東ミサイル売却の現地責任者、張承吉大使の証言でそのことの確証を得ていた。北朝鮮は当時、国連加盟国では唯一タリバン政権を承認していたパキスタンとは友好関係にあり、核・ミサイル技術も含め軍事交流も盛んだった。

 北朝鮮も当時はミサイルなど武器を中東やアフリカに売却していることを否定していなかった。実際に故金正日総書記自身も2001年5月に初めて訪朝したパーメル・スウェーデン首相が率いるEU代表団に対して「我々は求められれば売る」と言明していた。

 北朝鮮は米国に対する「9.11」同時多発テロ事件が発生した際に「テロ」や「ハイジャック」と言う言葉を使わず、単に「爆撃事件」が起きたと伝えていた。その後、事態の推移を見て、外務省談話を通じて「我が国は国連加盟国としていかなる形態のテロもテロ支援にも反対する」と表明したが、北朝鮮が一転してウサーマ・ビン・ラーディンらの「反米行動」に背を向けたのはそれなりの国内事情があったからだ。

 一つは、米国による「テロ支援国」のレッテルを剥がすことが優先されていたことだ。北朝鮮が前年10月に米国と交わした米朝共同宣言に「反テロ」を盛り込んだのもそのためだった。

 もう一つは、外交孤立から脱却するため西側諸国と国交樹立を急ぐ必要があった。実際に当時、英国は「北朝鮮が米国の対テロ戦争への支援を表明するならば、北朝鮮との関係強化のため閣僚級代表団を派遣する用意がある」と表明していた。加えて、イラン、シリア、リビア、キューバなど「反米国家」までがこぞってテロ批判に転じたことからも足並みを揃える必要があった。

 しかし、だからと言って、北朝鮮が米国の軍事行動を黙認したことは一度もない。一貫して批判していた。事実、北朝鮮の李享哲国連大使(当時)は国連に「大国が弱小国家の自主権を脅かし、紛争問題を支配主義の実現目的に利用しないよう特別な注意を払うべき」と注文を付けていた。米国のアフガン爆撃についても「武力行使は正当化できない」と反対していた。

 そのことは北朝鮮が2001年12月8日付けの政府機関紙「民主朝鮮」で中国とロシアが米国の爆撃を黙認していることを間接的に批判していたことからも明らかだ。

 「現国際情勢と我が党の先軍政治」との見出しの記事の中で「かつて米国に対峙した一つの軸として自ら振る舞い、米国の独断と専横に立ち向かっていた大国らが今では反テロ連合に網羅され、米国の指揮棒に従い、右往左往し、自らの自主権と尊厳まで棄損している」と批判していた。大国とは国連安保常任理事国のロシアと中国を指すことは言うまでもない。

 北朝鮮は友好国であるイランやシリア、或いはキューバへの米国の「干渉」については公然と批判してきているが、アフガニスタンは同盟国でないこともあってアフガン情勢についてはこれまで沈黙を保ってきた。それでも、米軍の駐屯や軍事行動には一貫して批判的で、むしろタリバン勢力に同情的で、タリバン勢力の復権を願っているふしもみられた。そのことは、朝鮮中央通信社が発行する朝鮮中央年鑑の「アフガン紹介記事」からも窺い知ることができる。

 朝鮮中央年鑑(2010年版)は世界各国紹介記事の中でアフガニスタンについては以下のように触れていた。

 「英国の保護領から1919年9月に独立し、1973年7月に立憲君主主義から共和国となり、1987年11月に国号をアフガニスタン共和国とする。1992年4月に内戦が終わり、新たな政府が構成された。2001年10月に米国は『9.11事件』を口実にアフガニスタンに対する軍事攻撃を開始し、12月にタリバン勢力を除去した。2002年6月にパシュトゥーン族のカルザイが過渡政府の指導者となった。2004年1月にタリバン政権以後初めて憲法が承認され、2005年9月に国会が占拠され、12月に32年ぶりに国会が召集された」

 「2009年にタリバン勢力の攻撃が強化され、タリバンの統制地域が一層拡大し、米国とその同盟国で死傷者が増大した。また、米国とアフガニスタン政府との関係悪化やアフガン政府の不正腐敗が国際社会の非難を受けるなど情勢は非常に複雑となった。タリバンはアフガニスタンから米軍を含む連合勢力の完全撤収を主張しているが、現政府はタリバンとは反対の立場にある。タリバン勢力はこの国の34の州のうち11の州を掌握している。タリバン勢力はアフガニスタンの南部と東部で活躍しており、近年は非常に平穏だった北部と西部地域に全線を拡大している。2010年に入り、米国は5月までに兵力を9万4千人に増やし、タリバンに対する掃討作戦を大々的に行っている。長期間の内戦と米国の武力干渉で経済が著しく破壊され、毎年多くの民間人死亡者と避難民が増え、一部地域では無政府状態が続いている」

 北朝鮮のタリバン政権承認は意外に早いかもしれない。