2021年12月18日(土)

 「妹・田口八重子は絶対に生きている」 兄・飯塚繁雄さんが死去

 先月まで拉致被害者家族会代表だった飯塚繁雄さんが今朝未明に亡くなった。拉致被害者の妹(田口八重子さん)を取り戻すため老体に鞭を打って救出活動を続けてきたが、無念にも妹との再会は叶うことはなかった。

 飯塚さんとは何度かお会いしたことがあるが、礼儀正しく、温和で、感情を表に出す人ではなかった。非常に芯の強い方で、「妹は必ず生きている」ことを信念に救出運動の先頭に立たれていた。実際に北朝鮮が「亡くなった」と通告した田口さんについては様々、かつ確かな生存情報がある。

 何よりも、遺骨、死亡診断書、死亡台帳、交通事故記録が捏造されていることだ。事故現場の写真が1枚もなく、死亡届出書には被害者の名前すら書いていないため死亡根拠が薄弱であることだ。

 例えば、北朝鮮は最初の調査報告書では田口八重子さんが「1986年7月30日、黄海北道麟山郡の馬息嶺峠で乗用車とトラックの衝突事故で死亡した」と発表していたが、馬息嶺で事故死した人が田口さん本人であることを示す客観的な情報の提示はなかった。そして、その後の発表では「軍部隊の移動訓練中に車列の先頭を走っていた軍の砲車に衝突した」と訂正していた。杜撰な調査であることを自ら認めたことに等しい。

 次に、「死亡日」が「1986年7月30日」とされているが、日本政府はその数カ月後に平壌市内の楽園商店で「死んだはず」の田口さんと会ったとする日本人拉致被害者からの目撃証言を得ている。即ち、「1986年7月30日に交通事故で亡くなった」との北朝鮮の発表は嘘ということだ。

 さらに、田口さんは同じ拉致被害者の原敕晃さん(1980年6月に拉致)と「1984年10月19日に結婚した」と北朝鮮は日本側に伝えていたが、日本政府は帰国した日本人拉致被害者から▲田口さんは1986年7月まで結婚していなかったこと▲結婚した相手は「日本人でなく、韓国からの義挙者(亡命者)」との証言を得ている。この点については招待所で田口さんから日本人化教育を受けていた大韓航空機爆破事件の実行犯・金賢姫(キム・ヒョンヒ)からも「1985年4月に(田口さんの)運転手が酔って田口さんと大喧嘩をして問題になったことがあるが、その時点でも田口さんは結婚してなかった」との証言を得ている。

 そもそも北朝鮮が言うように田口さんが1984年10月に原さんと結婚していたとすれば、田口さんは当時29歳で、原さんは48歳。田口さんが19歳も年上の、それも肝硬変を患っていた病弱の原さんと結婚することが果たしてあり得るだろうか。現に原さんは北朝鮮の発表とおりならば、「結婚」して2年も経たない1986年7月には病死している。

 拉致被害者を北朝鮮から取り戻した実績があり、横田めぐみさんの夫が韓国人拉致被害者であるという事実を最初に掴んだ「拉北者家族会」の崔成龍(チェ・ソンリョン)代表は2010年夏に「田口さんが平壌の万景台区域にある集合住宅に住んでいる」との情報を北朝鮮関係者から聞き出している。また、当時民主党政権下の中井洽拉致問題担当相も定例会見(2010年7月22日)で田口さんが「6〜7年前まで平壌で元気でいたという情報に接している」と「生存」を前提として発言を行っていた。

 翌2011年1月には共同通信(1月19日付)がこれら情報を裏付けるかのように「田口さんは平壌市万景台区域倉広通りの共同住宅で暮らし、78年にノルウェーで失踪した元高校教諭の高相文氏ら韓国人被害者の男性2人と共に行動する姿が目撃された。もう1人の韓国人男性は田口さんと結婚している可能性がある」との記事を配信していた。崔代表の情報よりもより詳細だが、「万景台で暮らしている」「共同住宅(集合住宅)で暮らしている」という点ではほぼ一致していた。

 北朝鮮は田口さんの拉致については「工作員が身分盗用に利用する対象者を物色中、1978年6月29日宮崎県宮崎市青島海岸で本人が共和国に3日程度なら観光がてら行きたいという意向を示したため特殊工作員が身分を偽装するのに利用するため連れてきた」と認めているが、「李恩恵(リ・ウネ)なる日本人女性はいない」と田口さんが「リ・ウネ」と同一人物であることは否認し続けている。また、田口さんの朝鮮名も「リ・ウネ」ではなく、「コ・ヘオクである」と主張している。

 崔代表は北朝鮮関係者から「大韓航空機爆破事件を実行したことを国として認めていないため、実行犯の金元工作員に日本語を教えた田口さんを帰国させることができないとの説明を受けた」と述べているが、それが死亡扱いにした理由ならば、北朝鮮が1987年に引き起こした大韓航空機爆破事件の犯行を認めない限り、「リ・ウネ」こと田口さんを日本に引き渡すことはないということになる。

 田口八重子さんが拉致され、すでに43年が経過した。1955年生まれなので来年で67歳になる。何とかしなければならない。

(参考資料:日朝首脳会談と拉致問題解決に向けての「私案」)