2021年3月26日(金)

 元慰安婦・元徴用工補償は解決済か、未解決か? 交渉当事者が語る日韓条約の内幕

ドイツ・ベルリンのミッテ区に設置された慰安婦像(「コリア協議会」配信)


 韓国のソウル中央地裁で今日(26日)、元徴用工2人が日本製鉄(旧新日鉄住金)を相手取った民事訴訟の口頭弁論が開かれる。来月21日には同じ地裁で元慰安婦や遺族ら20人が日本政府を相手取り損害賠償を求めた訴訟の判決が下される。

 日本政府を訴えた別の慰安婦被害者12人による同種の1月の訴訟では「国家は外国の裁判権に服さない」とされる国際法上の「主権免除」の原則を適用せず、日本政府に原告1人当たり1億ウォン(約960万円)の賠償支払いを命じている。

 日本政府と企業に元徴用工への損賠賠償を命じた韓国裁判所の判決をめぐる日韓の対立は落としどころが見えない。原因は、個人の請求権は1965年に締結された日韓条約で解決済との立場の日本政府と、韓国の裁判所の判決を尊重する韓国政府の立場の相違にある。そこで請求権をめぐる56年前の日韓国交交渉を再検証してみる。

 李承晩政権下の韓国との間で予備交渉を経て、1952年に始まったが、スタートから日韓会談は請求権問題で対立が露わになった。というのも韓国が▲韓国から日本に搬出した地金、地銀▲郵便貯金、簡易生命保険など旧朝鮮総督府に対する日本政府の債務▲1945年8月以後日本に搬出された金品▲韓国に本社、本店があった在日財産▲韓国人所有の日本国債と公債▲株券など日本政府又は日本人に対する権利行使▲上記6項目の利息▲協定発効から6か月以内に義務を完全に果たすなど8項目から成る「対日請求権要項」を提示したからだ。

 また、これとは別途に韓国は日韓会談の一環として開かれていた一般請求権小委員会で強制徴用された労務者66万7千684名と軍人・軍属36万5千名、併せて103万2千684名と見積もり、死亡者に対して一人当たり1千650ドル、負傷者に対して一人当たり2千ドル、生存者に対し一人当たり200ドル、総計で3億6千400万ドルの補償を要求していた。その結果、韓国は1953年の第3次会談で対日財産請求権として27億ドルを要求したものの日本はこれを拒否した。

 結局、日韓国交交渉は李承晩政権が1960年4月に学生革命によって倒され後に登場した朴正煕軍事政権下で1961年1月に再開され、4年後の1965年6月に妥結に至った。

 この年の6月22日に「日韓基本条約」と共に締結された「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」に基づき韓国に日本が3億ドルの無償資金と2億ドルの有償借款、それに民間ベースで3億ドルの商業借款を供与することで合意した。ちなみに無償3億ドルは36年間の植民地支配への賠償金ではなく、「独立祝賀金」の名目で供与された。

 その後、1967年の第1回日韓定期閣僚会議で2億ドルの追加商業借款が決まった。これにより、韓国は日本から総額10億ドルの「資金」を手にした。ちなみに1965年当時、韓国は最貧国で国家予算は3億ドルで、一人当たり国民所得は100ドルしかなかった。

 日本からの無償3億ドルは現金ではなく、日本の商品、用役で支払われた。朴大統領の故郷の金鳥工業高校の設立だけには例外として10億円の無償資金が投じられた。有償の2億ドルも「日本国生産物及び日本人の用役」に限定されていた。

 当時中川融外務省条約局長は「大声じゃ言えないけど、私は日本の金でなく、日本の品物、機会、日本人のサービス、役務で支払うということであれば、これは将来日本の経済発展にむしろプラスになると考えていた。それによって相手国に工場ができるとか、日本の機械が行くことになれば、修繕のため日本から部品が輸出される。工場を拡大する時には、同じ種類の器械がさらに日本から輸出される。従って、経済協力と言う形は、決して日本の損にはならない」と無償・有償資金は商業的な観点からの拠出であったことを認めていた。事実、1965年から今日まで日韓貿易は毎年、日本の貿易黒字で1965年から2018年までの54年間の日本の貿易黒字6千46億ドル(70兆円)に上る。

 朴正煕政権は日韓協定から6年後の1971年に被害者に補償することとしたが、対象は「日本軍によって軍人・軍属あるいは労務者として徴集又は徴用され、1945年8月以前に死亡した者」の遺族に限られた。生存している戦傷者、強制連行者、被爆者、サハリン残留者、従軍慰安婦、BC級戦犯などは除外されてしまった。

               

金鍾泌元首相の証言

 日韓国交交渉に直接関与し、当時大平正芳外相との間で日韓協定のベースとなった「金鍾泌・大平メモ」と呼ばれる合意を交わした金鍾泌元総理(故人)は生前、韓国のメディアとのインタビューでも、また日韓国交樹立40周年に当たる2005年に来日し、経団連で中曽根康弘元総理ら日本の政治家、官僚、財界人及び言論人ら1千人を前に日韓国交記念講演を行った時も日韓交渉時を回顧していた。

 金鍾泌氏は徴用工や慰安婦らの補償問題がなおざりにされてしまったことについて次のように「証言」していた。

 「1951年9月に締結されたサンフランシスコ条約は第二次世界大戦を外交的に終息させるため米国など連合国48か国と日本が交わした平和条約である。植民地だった韓国は日本とは正式に戦争状態にはなかったとの理由から講和条約には招待されてなかった。対日講和条約は日韓両国に対して国交正常化問題については両国の間で別途に対話を通じて解決するよう勧告していた。1951年から61年5月まで5回会談が行われ、(朴政権登場後の)1961年10月に第6回会談が再開され、1964年4月まで続いた。国交交渉の主たる議題は結局、日本に金を出させることにあった」

 「朴大統領が『ある者は日本が我々を36年間支配していたので1年に1億ドル、合計で36億ドルを出させるべきだと言い、またある者は少なくとも10億ドルは貰わなくてはならないと言っているが、8億ドルでどうだろうか。国民は不満かもしれないが、それで総合製鉄所もつくり、総合機械工場もつくってやってみよう』と言うのでこの額が指針となった」

 「1962年11月12日、大平外相と会って、交渉を行った。大平外相は無償で2億ドル、有償で3億ドルの合計5億ドルを提示してきた。私は無償で3億、有償で2億、それにプラスアルファとして民間ベースで1億ドルの計6億ドルを要求した。この日の交渉で無償3億ドル、有償(対外協力基金)2億ドル、輸出入銀行から1億ドルにプラスアルファを提供するとのメモが二人の間で交わされた。『金・大平メモ』の6億ドルプラスアルファは1965年の最終妥結の過程で8億ドルに調整された。対日請求資金は浦項製鉄(1億3千万ドル)や京釜高速鉄道やダム建設などに使われることになった」

 「名目について私は対日請求権資金を主張したが、大平は経済協力資金を譲らなかった。結局、1965年6月22日に締結された日韓協定には請求権に関する文書の名称は『財産及び請求権に関する問題の解決及び経済協力に関する協定』ということで妥結した。双方の利害が共に反映された形となった」

 「1965年の日韓国交正常化に伴う対日請求権資金8億ドルは1960年代と70年代の韓国の基幹産業やインフラ建設に投入され、日本企業から導入された先進技術は韓国の経済発展に大きな助力となった。浦項製鉄所の場合、初期に投入された1億3千万ドルの請求権資金はこの会社を世界的な企業にするうえで大いに寄与した。韓国の経済発展により両国の貿易量も増え、日本は大きな恩恵者となった」

 「慰安婦問題は歴史的に重要な問題ではあるが、日韓交渉では討議されなかった。1951年から65年まで14年間、会談が行われたが、一度も議題には上がらなかった。私が1962年11月に大平外相と請求権交渉をした時もこの話はしなかった。この問題を知らなかったわけでもなかったし、日本の過ちを見逃すつもりもなかった。当時、我が社会の暗黙的雰囲気があった。戦前、慰安婦らは惨憺たる戦場を転々としながら人間以下の最低の奈落に陥り、九死一生生き延び、帰国した人々だ。体も心も傷を負った人々だ。彼女らはまだ30代から40代前半と若かった。凄惨な苦労を背負いながらも辛うじて帰国し、結婚もし、子を産み、家庭も築いていた。彼女らの過去史や傷を持ち出すことは二重、三重に苦痛を与えることになるからだ」

 「1971年5月から72年3月まで10カ月間、既存の日韓請求権とは別途に日帝時代の民間人被害者補償のための『対日民間請求権申告』窓口を設けたが、その時延べ14万件、金額にして40億ウォンの申告を受理した。しかし、慰安婦被害の申告は1件もなかった」

 「過去に日本が戦時総動員体制を強化し、韓国人に対する創氏改名や徴用、徴兵、そして慰安婦動員などが朝鮮人の自発的意思によって行われたと言うほどひどい冒涜はないと思う。何よりも事実ではない。私も若い頃、直接自分の目で見た。農村で貧しい乙女らが日本の工場で働けるとの嘘の言葉を信じて連れて行かれ、慰安婦にされ帰国すると、家門から見捨てられた実話を良く知っている。伊藤正徳という戦史作家が書いた本にも朝鮮半島出身の慰安婦らがニューギニアまで連れて行かれ、死んでいったことが描写されている」

               

李東元外相の証言

 また、当時外相として条約に調印した李東元氏(故人)は日韓国交30周年の際に韓国のメディアに以下のように「証言」していた。

――当時の会談での主要案件は?

 「我々が臨んだ会談の目的はまさに経済協力にあった。漁業と請求権、在日同胞の法的地位補償問題の3つだ。中でも『金鍾泌・大平メモ』に関連した請求権問題は他の問題よりも難産だった。今も韓国と日本の外務省に保管されているメモには『米ドルで無償援助3億ドル、日本の海外協力基金による20年払いの長期借款2億ドル、民間ベース借款1億ドル、ケースバイケースによる商業借款』と書かれているが、当時日本はこのメモ通りやろうとしたが、我々はそれだけでは不足で1億ドルをプラスするよう主張し、対立した」

――従軍慰安婦や徴用者、学徒出陣に動員された死亡者や被害者らの賠償問題がそのまま残っているが、当時の条約ではこの問題をどのように処理したのか?

 「記憶がはっきりしないが、当時の協定条項には従軍慰安婦の問題や被爆者、徴用者に対する賠償はどこにも含まれなかった。誰の口からも持ち出されなかった。理由は、従軍慰安婦の問題は被害者である韓国にとっても、加害者である日本にとっても恥ずべき歴史の痛みであるからだ。この問題を持ち出せば、国民感情を損なうだけで、外交的に得るものがないからだ。それで、この問題は将来の両国の関係に委ねることにした。現在の立場からすれば、韓国も政治次元から被害者にその程度の賠償をいつでもできる余力がある。米国がロシアに10億ドルの借款を与えたとき、我々はそれよりもはるかに多い30億ドルを与えるほどなのに何故この問題で政府は消極的なのか、このことは今まで政府が無関心であったことを物語っている。事実、従軍慰安婦の問題は韓国で起きたのではなく、日本の社会団体から提起されている。そして、日本の言論が騒ぎ出して初めて韓国のマスコミが取り上げた。従って、韓国政府がまず賠償措置を取るべきだ。そして、日本政府がどのような対応を取るのかを見守るべきだ」

――今振り返って、当事者として日韓条約をどう評価しているのか?

 「避けることのできない歴史の流れであったと思っている。当時の条約が最善かという是非はあるが、国家間の条約、協定は国力によって最善と最悪がつくられるものだ。結論的に言うと、この条約で我々は急激な経済発展を成し遂げた。もちろん、肯定的な面だけではない。深刻な経済奴隷と退廃文化の輸入など否定的な面もあったことは否めない」