2022年5月1日(日)

 「金丸信の次男」の死去で細い日朝の糸が切れた! 32年前の「金丸訪朝」の秘話

 今年は「小泉訪朝」(2002年9月)から20年目となる。小泉純一郎総理(当時)の訪朝で長年の懸案であった「拉致問題」が動き出したのは周知の事実である。

 自由主義陣営の首脳の訪朝は2000年6月の韓国の金大中(キム・デジュン)大統領に続くものだが、日本からは首脳ではないものの「小泉訪朝」の12年前の1990年9月には当時No.2の副総理の座にあった金丸信氏が訪朝していた。当時では北朝鮮を訪れた初の西側の執権与党指導者であった。その歴史的な「金丸訪朝」に随行した次男の金丸信吾氏が今年3月23日に亡くなったとの訃報が届いた。残念だ。

 「小泉訪朝」で拉致問題が沸騰し、北朝鮮を非難する世論が高まると、それまで北朝鮮と付き合いのあった政党や友好人士らが「君子危うきに近寄らず」とばかり、潮が引くかのように北朝鮮離れを始めた中にあって父親の意志を受け継ぎ、唯一死ぬ最後まで北朝鮮との細いパイプを維持してきた人物が他ならぬ金丸信吾氏である。

 初訪朝から亡くなるまでの32年間、訪朝回数は延べ22回。昨今の「反北朝鮮」世論を考えると、なまじかの覚悟で続けられるものではない。おそらく「いつの日にか」との思いを抱き続けながら民間交流を続けてきたのだろう。しかし、信吾氏の死去で日朝のパイプは完全に途切れてしまった。

 信吾氏との出会いは親しくしていた故羽田孜元総理から「親父が北朝鮮に行くので金日成についてレクチャーしてもらえないか」と頼まれ、事務所に伺った時だ。ステテコ姿の父親の傍に付き添い、こちらの話を何やらメモをしていた。

 帰国した直後に再び事務所に伺い、訪朝の感想、特に金主席との差しの話を窺うことができた。当時の取材メモをみると、およそ次のようなことを話されていた。

 「金主席とは3回会った。社会党の田辺誠(副委員長=当時)君に失礼になると思って、二人きりで会うのは遠慮したのだが、向こうがどうしても二人きりで会いたいと、金容淳(キム・ヨンスン=対日担当書記)が言ってきたので、仕方なく二人きりで会った。昼食も含めて4時間ぐらい、国際情勢などいろいろ話を交わした。ソ連(今のロシア)の韓国承認を大分意識されていたようだ。私は韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領が来日した時に迎賓館まで行って、北朝鮮に行ってくると挨拶し、韓国と米国に害を及ぼすようなことは一切しないと約束していた。だから、米国や韓国との関係については一切話題にならなかった。事前に日米安保や日韓関係を損なうような会談になるならば、途中で帰ると言っておいたのだが、金主席は理解してくれた。もちろん、私の方もラングーン事件(全斗煥大統領テロ未遂事件)や大韓航空機爆破事件を持ち出さなかった。この問題を持ち出せば、日朝に風穴が開かないと思ったからだ」

 「正直言って、北朝鮮に行く気はなかった。しかし、拿捕された『第十八富士山丸』の家族から涙ながらに夫の釈放を求められていたので訪朝を決断した。しかし、私が行くとなれば、『富士山丸』だけというわけにはいかない。日朝の厚い壁に風穴を開けることが最も重要で、次に『富士山丸』問題を人道的に解決することだった。北朝鮮が『富士山丸』の船長らとの交換条件に求めていた亡命兵士(1983年に日本に亡命した閔洪九兵士)は『日本に亡命を求めてきたので返せない』と言ったら、金主席は『それで結構だ』と言ってくれた」

 「北朝鮮訪問については右翼が抗議しているが、『よくやった』との電話や手紙もたくさん貰った。朝鮮人からも『ありがとう』という手紙や電話を貰っている。日本人が朝鮮人からこのような手紙を貰うことは珍しいことだが、これが大変な励みになった。私の訪朝は将来、歴史家が評価してくれるだろう」

 また、筆者の「金銭の話が出たと報道されているが、賠償金についても話が出たのですか?」との質問には「びた一文しなかった。富士山丸乗組員をまるで売買するかのような金の話は双方にとって良くないからだ」と答えていた。

 信吾氏からはその後も「金丸訪朝」にまつわる逸話を幾つも聞かされていた。金主席は雄弁で話が尽きず、帰りの時間を気にし始めた金丸氏に向かって「心配いりません。帰りはヘリコプターを用意させますので」と言っていたことや二人のやりとりで趣味の釣りの話が出たこともあって名古屋―平壌間の直行便が開通した際に金主席が釣った魚を生きたまま金丸氏に渡すよう北朝鮮の関係者に指示したところ、それを受け取った信吾氏がその場でビニール袋に入れて氷詰めにして持って帰ったという笑い話まで様々な話が取材手帳に記されている。

 「金丸訪朝」は「小泉訪朝」に比べると、歴史的評価は低いが、金主席が金丸氏に国交正常化を提案したことは歴史的なことだった。それまで日米が北朝鮮を、中ソが韓国を承認する「クロス承認」に北朝鮮が一貫して反対していたからである。

 「北朝鮮が日本に国交正常化を提案」との平壌からの一報に日本政府だけでなく、日本の背後から北朝鮮の出方を見守っていた韓国政府も?然としていた。ニューヨークの国連総会中に緊急連絡を受けた韓国の外相は思わず絶句し、「北朝鮮が赤化統一政策を固持したまま対日接近を図るならば、(日朝関係改善)を警戒せざるを得ない」との声明を慌てて発表するほど当惑の色を露わにしていた。「金日成―金丸会談」後に自民党と社会党と朝鮮労働党による国交正常化に向けた「3党共同宣言」の発表はまさに韓国政府にとっては「青天の霹靂」であった。

 今では信じ難いことだが、金主席は金丸氏との会談で次のように発言していた。

 「日本は経済大国だが、政治大国にもなっている。ここまで来たのは日本の政治が正しかったからだと思っている」

 金主席の国交正常化提案は金丸訪朝1か月前の「労働新聞」(90年8月29日付)が「日本の反動は『二つの朝鮮政策』に積極的に共謀、加担しながらいわゆる『クロス承認』の突撃隊の役割を果たしている」と激しい対日非難を浴びせていたことを考えると180度の豹変と言える。

 北朝鮮の心変わりの直接の原因は、金丸信氏が感じたように何よりも同盟国のソ連との関係にひびが入ったことだった。

 東西冷戦に終止符を打ったゴルバチョフ政権はシュワルナゼ外相を平壌に派遣し、北朝鮮に対してソ連が韓国を正式に承認すること、経済援助をストップすることを伝えた。これに対して北朝鮮は猛烈に反対した。

 政府系機関紙「民主朝鮮」は9月15日付にソ朝外相会談の内幕を暴露する備忘録まで載せていた。北朝鮮は同盟国とのトラブルは外には公表しないことを原則としていただけに公開論争に打って出たことは極めて異例だった。また、金主席はソ連外相の表敬訪問を拒絶したが、ソ連の外相と会わなかったことも両国外交史上初めてのことであった。

 シュワルナゼ外相には金永南(キム・ヨンナム)外相(当時)が対応したが、ソ連の通告に対して金外相は「ソ連が韓国を承認するならば、我々は北方領土で今後は日本を支持する」とソ連にとっては耳を疑うような発言をした、北朝鮮はその証左として金丸一行を国賓待遇で迎え入れた。

 北朝鮮が北方領土で日本の立場を支持したからと言って簡単に戻ってくるような話ではないが、それにしても、金主席にそこまで決断させたことは「金丸訪朝」の眼に見えない成果と言っても良い。万が一、この時に国交を正常化していれば、日本を取り巻く周辺状況も今とは大きく様変わりしていたであろう。

 金丸信氏は自らの訪朝を「将来、歴史家が評価してくれるだろう」との言葉を残し、他界し、そしてその意思を受け継いだ次男の信吾氏まで去った今、一体、どこの誰が、断絶したままの日朝を繋ぎ、未解決の拉致問題を含め長きにわたる両国の懸案を解決してくれるのだろうか?日朝双方にとって実に惜しい人を失ったものだ。