2022年10月2日(日)

 猪木氏を追悼! 孤軍奮闘の知られざる「スポーツ外交」

南北首脳の肖像画が掲げられた南北国連同時加盟祝賀宴で挨拶する猪木氏(筆者所蔵)


 生前親交のあったアントニオ猪木さんが亡くなった。無念、残念だ。

 猪木さんとは六本木に事務所があった頃からの付き合いだが、共通の話題はプロレスではなく、朝鮮半島と日本との関係についてだった。その集大成が今から8年前に出版した対談本「北朝鮮と日本人 金正恩体制とどう向き合うか」だ。そうしたご縁もあって、猪木さんの訃報に接してどうしても書き留めておかなければならないことがある。

 猪木さんが「スポーツを通じて国際平和」をスローガンに政治家に転じたのは1989年で、大陸中国を揺さぶる「天安門事件」が発生し、ベルリンの壁が崩壊した激動の年であった。

 東ドイツの瓦解による東西ドイツの統一の余波は朝鮮半島にも波及し、翌1990年にはソ連(現ロシア)が韓国と国交を樹立し、日本も自民党の実力者・金丸信副総理が北朝鮮との国交正常化のため訪朝した。韓国と北朝鮮との間でも分断史上初の首相会談が実現し、ソウルと平壌で史上初のサッカーの交流試合が行われた。

 朝鮮半島のデタントは翌年の1991年には加速化し、首相会談の成果として「南北の和解と不可侵及び協力・交流に関する合意書」が交わされ、また、国連加盟に難色を示していた北朝鮮の方針転換により南北が揃って国連に同時加盟も果たした。千葉で開かれた世界卓球選手権大会に南北が統一チームを組んで出場したのも、また、日朝国交に向けて政府間交渉が始まったのもこの年である。

 猪木氏が朝鮮問題に関心を持ち始めたのはまさにこの1991年からで筆者が音頭を取った韓国と北朝鮮の南北国連同時加盟を祝う祝賀宴に俳優の菅原文太さんや歌手の都はるみさん、評論家の田原総一郎さんらと共に発起人として名前を連ねてからだ。

 発起人となったのは朝鮮半島の問題に入れ込んでいたわけでもない。むしろ、ほとんど無関心であった。また注目されたいからでもなかった。素朴に国連加盟を機に南北が仲良くなり、一つになってもらいたいとの熱い思いからであった。そのことは祝賀宴でのスピーチで「南北が雪解けし、いつの日か一つになることを念願しており、日本と朝鮮半島の友好とアジア、そして世界の平和のためにスポーツマンとして、また政治家としてお役に立つことができればこれ以上嬉しいことはありません」との言葉に表れていた。

 猪木氏が北朝鮮を訪れたのはそれから3年後の1994年9月である。何を思っての、またどのようなルート、パイプを使って入ったのか、多くを語ることはなかったが、猪木さんは筆者とのインタビュー(1995年3月)で訪朝理由についてこう語っていた。

 「祝賀宴に出席して、恩師である力道山の娘が北朝鮮にいることを知った。それまで私にとって朝鮮半島の印象は薄かった。北朝鮮で出版された『力道山物語』を読んで、力道山が60年代に一度韓国を訪問した際に板門店で北側に向かって何か大声で叫んでいたことが書かれてあった。金も地位もある力道山にとって唯一出来なかったことは故郷に帰れないことだったのかもしれないと思った。力道山の望郷の念に心を打たれた。力道山は生まれ故郷に帰ることなく亡くなった(1963年暴漢に刺殺される)が、30年も経った今、力道山の弟子として、恩師の夢を叶えてあげたいと思った。言わば『オヤジ』おへの恩返しだ。力道山先生がいるから今日の私があるわけだから」

 最初の訪朝で金丸氏を接待した北朝鮮の実力者、金容淳(キム・ヨンスン)党書記(対日・対南担当)と太いパイプを持ったことで95年4月に「平和のための平壌国際スポーツ及び文化祭典」を開催することとなった。

 祭典のメインは当然、4月28日から2日間行われたプロレスであった。祭典には約15万人の平壌市民が詰めかけた。元世界ヘビー級チャンピョン、モハメド・アリ氏らを含め海外から1万人以上が押し寄せたことでホテルの部屋が足りず、一般の家庭にホームステイさせたとの逸話もあるほど祭典は成功を極めた。

 猪木氏は金容淳書記が委員長を兼務していた「朝鮮・アジア太平洋平和委員会」との共催によるプロレスをメインイベントとした「平和スポーツ祭典」を平壌で開催した動機について当時、筆者に次のように吐露していた。

 「私はイラクでもプロレスをやったこともあるし、旧ソ連でも五輪選手であるアマレスラーやボクサーをプロに転向させたこともある。政治では難しいこともあるが、イベントを通じて国民の声を伝えることは素晴らしいことだと北朝鮮側に提言した。彼らはプロレスを一度も見たことがないと言うので、ならば本物のプロレスをお見せしようと言うことになったわけだ」

 北朝鮮は猪木氏の提案に当初、難色を示していた。建国の父、金日成(キム・イルソン)主席が94年7月に亡くなって、まだ一周忌も終わってない言わば喪中期間中に祭典の開催は不謹慎であったからだ。しかし、猪木氏によると、金容淳書記からの報告を受けた後継者の金正日(キム・ジョンイル)書記(当時)の「国中が沈んでいる。このままではだめだ。何か明るい話題で世の中をパット明るくし、活気つけなければならない」の「ひと声」で決まったそうだ。

 「資本主義スポーツ」の象徴とみられていたことからプロレスは当時、中国でも解禁されてなかった。猪木氏は閉鎖的な北朝鮮の扉をこじ開けて、中国よりも先んじてプロレス興行をやってのけたわけだ。

 猪木氏のスポーツ外交の神髄骨頂はこの年、スポーツ祭典だけでなく、極度に関係が悪化していた韓国と北朝鮮の仲介役も買って出たことだ。当時、日本と韓国は未曽有の食糧危機に瀕していた北朝鮮に対して「コメ支援」をカードに北朝鮮との関係を改善しようと競っていた。

 日本は大韓航空機爆破事件の金賢姫(キム・ギョンヒ)実行犯の証言から田口八重子さんが北朝鮮に拉致されていることがわかり、食糧支援を「切り札」にして北朝鮮に拉致の事実を認めさせ、日朝交渉を進展させようとしていた。一方の韓国もまた金主席の突然の死去で流れてしまった南北首脳会談を何としてでも実現させようと、金容淳書記とパイプのある猪木氏にアプローチし、南北関係改善の「橋渡し」を依頼していた。

 金泳三(キム・ヨンサム)政権の依頼を二つ返事で承諾した猪木氏は祭典準備のため訪朝した4月8日に金容淳書記に会い、韓国密使から託されたメッセージを伝え、祭典期間中にも「南北のホットラインを再開させることを条件にコメ20万トンを提供する」との韓国側の親書を手渡していた。猪木氏の仲介が功を奏し、南北のホットラインが再開し、6月18日に北京で南北秘密接触が行われた。この水面下の動きについて猪木氏は筆者の質問に以下のように答えていた。

 「南北の関係が良くなればと思って仲介した。実際に金容淳から礼を言われた。どこの国の、誰の頼みであっても良いと思ったことはまた、感謝されるならばやる。それだけのことだ」と語っていた。

 猪木氏の「スポーツ外交」は信念に基づいていた。その凄さは「君子危うしに近寄らず」と誰もが敬遠するところに乗り込み、あるいは拾わない火中の栗を拾うことだ。まさに33回に上る「タブーの国」、北朝鮮への訪問がそのことを物語っている。

 猪木氏が参議院にカムバックした2013年11月に訪朝した時は国会会期中、それも許可を得ず強行していた。公務でなく、私用だ。懲罰を覚悟してまでもなぜ、訪朝を決行したのか、不思議だった。

 訪朝の目的は「日本スポーツ平和交流協会」の平壌事務所設立にあった。スポーツを通じて日朝間の交流を促進するだけでなく、北朝鮮と外国のスポーツ交流の「受け皿」となり、仲介もすることにあった。スポーツ交流が北朝鮮を開放させる最大の近道と考えていたようだ。

 一般には知られてないが、モハメッド・アリーやマイク・タイソンなど世界ヘビー級タイトルマッチを手掛けていた世界的なプロモーターとして名高いドン・キング氏と共に「北朝鮮プロジェクト」という名称のイベントを計画していた。金正恩夫妻出席の下、2012年7月初旬に平壌開かれた「ポチョンボ音楽会」でロッキーのテーマソングが演奏され、バックスクリーンにロッキーの映画のワンシーンが登場したことを耳にし、「北朝鮮プロジェクト」を発案したようだが、プロジェクトの中には朝鮮半島の休戦ラインの非武装地帯でのスポーツ祭典が含まれていた。

 南北の仲介や米朝の仲介はやって、肝心の日朝の仲介をやらないはずはない。猪木氏自身も「(日朝)双方に望まれれば、橋渡しの用意がある」と再三にわたって言明していた。

 参議員当選直後に休戦協定60周年式典(2013年7月27日)に出席するため訪朝したアントニオ猪木氏は帰国後、外国特派員協会での「訪朝報告」で拉致担当大臣が拉致問題でモンゴルやベトナムを巡回し、協力を要請していたことについて「拉致は2国間の問題だから、世界を回って訴える話ではない」と一刀両断だった。

 再三にわたる訪朝で金正恩総書記の後見人でもあり「国家体育指導委員会」委員長を兼ねていたパートナーの張成沢氏と太いパイプを構築した猪木氏は「サプライズ外交によって、日朝の懸案を解決する」と筆者に打ち明けていた。それだけに張成沢氏が2013年12月に国家反逆罪で処刑されてしまったことは猪木氏にとっては想定外であった。

 猪木氏は拉致問題の解決のための政府の特使として、あるいは密使として訪朝したことは一度もない。それだけが本人にとって唯一、心残りのようだ。