2024年12月16日(月)
弾劾された尹大統領は朴槿恵元大統領と同じ道を歩む!?
弾劾を求めた国民に謝罪する朴槿恵元大統領(JPニュースから)
国会で弾劾され、大統領職の停止を余儀なくされた尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領に対して検察と、それに警察が調査を委託した高位公職者犯罪捜査庁(「公職庁」)が競うように尹大統領に出頭を求めている。検察は一両日中に、また「公職庁」は18日までの出頭を求めている。
尹大統領夫妻が居住している大統領室は警察の家宅捜査については「軍事上保護施設、公務上秘密保管施設」を盾に拒み、また検察の中央地検への出頭要請に対しては「大統領の戒厳令宣布行使は司法審査の対象とはならない統治行為である」と拒否し続けている。これは2016年12月に弾劾された保守の先輩である朴槿恵(パク・クネ)元大統領のやり方をそのまま踏襲している。
朴元大統領の時も「軍事上保護施設、公務上秘密保管施設」を盾に家宅捜査に来た検察官らと5時間も対峙し、立ち入りを拒否していた。皮肉にも当時の検察の捜査チーム長は尹大統領自身だった。
朴元大統領は検察の事情聴取に応じることは一度もなかった。当然のこと、検察に出頭することもなかった。仮に強制的に連行され、逮捕され、裁判に懸けられれば、「悲運の政治犯」として保守派らの結集を呼びかけ、獄中から「政治闘争」する腹だった。
朴元大統領もまた、尹大統領同様に当時、朴元大統領の退陣を求める「蝋燭デモ」を鎮圧するため戒厳令を敷く計画だった。ただ、尹大統領のそれとは異なり、実行には移さなかった。
朴元大統領は国会で弾劾されても、支持率が歴代大統領最低の5%になっても、退陣を求めるデモが100万人規模になっても、大統領の座を手放す考えは毛頭なかった。国会で弾劾されても、憲法裁判所がそれを認め、罷免しない限り、大統領の座に留まることができたからだ。
スタート当初は高齢者中心に数千人規模だった大統領支持派のデモが主催者発表で過去最高の30万人(警察発表5万人)に膨れ上がっていたことも支えになっていた。「コンクリート基盤」とされる保守勢力、隠れ「朴支持派」が息を吹き返し、保守バネが作動し、急落した支持率が徐々に回復すれば、憲法裁判所の判決にも影響を及ぼし、国会の弾劾決議が棄却されるかもしれないとの期待を抱いていた。
何よりも、軍部は国会で罷免されても朴大統領を見放していなかった。女性大統領は軍にとって非常に扱いやすい。軍歴もなく、知識も乏しいからだ。加えて、最高司令官である朴大統領は軍に全幅の信頼を寄せていた。
戒厳令を計画したのは今回の非常戒厳令発令で動員された軍防諜司令部の前身、機務司令部で、同部が2017年3月に作成されたとされる67ページに及ぶ「戒厳対応計画細部資料」には以下のように実行計画が記されていた。
▲デモが行われているソウル中心部の光化門と国会議事堂のある汝矣島に機甲旅団(戦車や装甲車部隊)と特殊戦司令部を夜間に投入する▲治安および国家機能を維持するため新聞社や放送局など報道機関に「戒厳司令部検閲団」を置く▲国会が戒厳令を解除できないよう「反政府政治活動をした議員を集中的に検挙した後に司法処理する」ことなどが書かれてあった。また、野党系の国会議長を含め戒厳令に反対する場合は検挙し、司法処理することも検討されていた。
今回同様に戒厳令を発令する際に陸海空を束ねる合同参謀本部の議長を排除して張駿圭(チャン・ジュンギュ)陸軍参謀総長が戒厳司令官に推薦されていた。
結局、朴元大統領は憲法裁判所で2017年3月10日に罷免(弾劾賛成8人、反対0人)され、2日後には大統領官邸(青瓦台)を去らざるを得なかった。
ソウル・三成洞にある私邸に戻った朴元大統領は私人となった以上、もはや検察の捜査を拒むわけにはいかなかった。帰宅してから11日後に検察に呼ばれ、事情聴衆を受け、その9日後の3月30日深夜に緊急逮捕され、裁判で懲役20年の実刑が宣告され、刑務所暮らしを強いられた。
尹大統領も弾劾が棄却されれば、朴元大統領と同じ道を辿ることになるが、内乱罪の場合は刑が重く、最高刑は死刑もしくは無期懲役である。
(参考資料:ドキュメント 韓国で宣布された「12.3非常戒厳令」)
(参考資料:韓国で宣布された「12.3非常戒厳令」ドキュメントU)