2025年8月15日(金)
終戦まで日本人が暮らしていた韓国、北朝鮮の地域とその数 北朝鮮からは全員帰還できたのか?
朝鮮総督府(出所:国家記録院)
今日(8月15日)は日本にとっては終戦記念日、朝鮮半島にとっては解放記念日である。
朝鮮半島は日本の敗戦により36年間にわたる日本の統治から解放されたが、終戦まで一体どれぐらいの数の日本人が移住し、暮らしていたのだろうか、終戦80周年を機に調べてみた。
引揚げ援護庁の資料「引揚げ援護の記録」(1950年)によると、終戦時の在外邦人生存者数は660万人以上いたそうだ。
朝鮮半島に在住していた日本人は一時、100万人を越えていたとも言われているが、正確な数は定かではない。日本の統計庁によると、韓国からは1990年11月現在、延べ41万6109人が帰国したことがわかっている。
近年、韓国の「都市研究所」が公開した「1944年統計庁の資料」には日本人が暮らしていた地域と、その数(2500人以上に限定)が載っていた。
最も多く暮らしていた地域は京城(ソウル)で15万8710人。2位は釜山(6万108T人)、3位は兵站関連工場や化学工場、鉄鋼会社が多くあった仁川(2万1740人)である。
4位は慶尚北道各地域と連結する鉄道、道路網が構築された大邱(2万649人)、5位は忠清南道の大田(1万674人)で日本人の代表的な居住地として「本町(ほんまち)」と呼ばれていた。続く6位は慶尚南道の昌原(9340人)で、鎮海地域に海軍本部が設置されていた。
また、7位から10位はいずれも全羅道地域で、光州が8916人、穀倉地帯として知られる郡山が8261人、当時軍事要衝地だった木浦が7717人、穀倉地帯の全州が6909人となっている。さらに11位から20位までは次の通りである。
11位:慶尚南道馬山(6352人)
12位:全羅北道益山(5704人)穀倉地帯でもあり物流の中心地。春浦駅舎は2005年11月に国の文化財に指定されており、今も駅周辺には日本式建物が数多く見られる。4年前に日本人が倉庫に隠匿したとされる金塊2トンの「埋蔵金騒動」が起きた。
13位:全羅南道麗水(4304人)海軍基地や航空基地があり、経済的、軍事的要衝地だった。
14位:忠清北道清州(4055人)同庁が移転され、日本人の移住が増えた地域である。
15位:慶尚南道統営 (4050人)日本人の進出により新都心として形成された。
16位:江原道水原(4000人)日本人の多くは水原駅周辺に居住していた。
17位:慶尚北道迎日郡(3922人)現在の浦項市で、当時は朝鮮半島1番の漁港都市に発展。岡山県からの移住者が多く暮らしていた。
18位:全羅南道順天(3730人)交通の要衝地で、駅周辺には日本人の官舎や病院、生活施設などが散在していた。
19位:江原道春川(3466人)貿易港として栄えていた。神社が至る所にあった。
20位:慶尚南道晋州(3273人)慶尚道を代表する貿易港だった。
一方、北朝鮮の主な都市をみると、平壌に3万1804人、清津に2万9581人、咸州に2万8407人、元山に1万4590人、咸興に1万2042人、新義州に1万0430人の日本人が居住していた。平壌と新義州以外は日本海に面している。
主要都市だけで12万6854人だが、厚生労働省の統計では北朝鮮からの引揚者は1990年11月現在29万7194人となっていた。このうち22万2557人は1945年12月末まで帰国し、以後、1946年6月に2万6079人、1946年12月に3954人、1947年1月69人が帰国し、1947年2月からはゼロとなった。
ソ連参戦後、中国東北部(満州)から約7万人が日本へ引き揚げようと南下してきたが、旧ソ連軍が北朝鮮に進駐し、38度線で交通を遮断したため日本への引き揚げに失敗した日本人も相当数いたであろう。
今から20年前、読売新聞(2005年8月19日)に載った68歳の主婦の以下のような内容の投稿が当時の北朝鮮からの脱出の困難さを物語っていた。
「60年前の8月15日、平壌の官舎で私達親子は終戦を迎えた。父は当時、将校として部隊に入っており、39歳の母、8歳の私、4歳と生後7か月目の弟、日本からついてくれた若いお手伝いさんの6人で生活していた。その2ヶ月前に千葉の疎開先からやって来たばかりの私達だったが、この日のラジオ放送を境に生活が一変した。ソ連か下士官の略奪や暴行、手のひらを返したような態度の朝鮮の人たち、食糧難・・・・。私達は家を追われ、他の日本人家族とひきしめ合って暮らす毎日となった。年が明け、収容された鎮南港の倉庫で、やっと立つことができて嬉しそうにしていた一番下の弟がその翌日に発病し、急逝く。りんご箱に入れられ、小高い丘の共同墓地に葬られた。若い母親たちが、多くの乳児が埋葬された土饅頭にお乳を振りかけていた姿が今も忘れられない。その後、結核でやせ衰えた上の弟をおぶり、『38度線』を突破し、命からがら疎開先の千葉にたどり着いた」
日本政府は終戦後、北朝鮮に駐屯していた軍人も含め3万4千人が北朝鮮地域で死亡したと推定している。このうち1万3千の遺骨が終戦直後に日本に送られたものの残り2万1千600柱がまだ北朝鮮にあるものとみられている。
中国に残留孤児があって、フィリピンなど東南アジアに旧日本軍人が生存していて、少なくとも数十万人が暮らしていた北朝鮮に一人もいないとは常識では考えられない。相当数の残留日本人が朝鮮人を装って、「金」とか「李」とかの朝鮮名を名乗り、息を潜めて暮らしていたはずだ。日本兵も例外ではない。
例えば、シベリア抑留日本兵の一部が北朝鮮に移送されていたことについて民主党の谷博之参議院議員が戦後60周年の年の2005年10月31日に政府に質問状を提出した際の政府の回答がある。一問一答式にすると、政府の回答は以下のとおりだ。
1.「現時点で政府は旧ソ連から北朝鮮に移送された抑留者の数をどのように把握、又は推定しているのか?」
「旧ソ連抑留者の数から本邦に帰還した者の数、及び旧ソ連邦及びモンゴル地域において死亡した者の数を控除した数は約4万7千人となっている。この中に北朝鮮の地域に移送された旧ソ連邦抑留者が含まれるものと考えているが、その具体的な数字については承知していない」
2.「北朝鮮への移送の事実をいつ知ったのか?」
「戦後本邦に帰還した者からの情報などから遅くとも昭和21年には政府として北朝鮮に移送された旧ソ連邦抑留者がいることについて承知に至った」
3.「北朝鮮で亡くなったシベリア抑留者の遺族にはその旨の通知が行われているのか?
「北朝鮮で亡くなった者の通知については行っていない」
4.「北朝鮮政府に対してもこの問題での資料、情報の提供、調査団の受け入れなどを要請する必要があると思うが、やっているのか?」
「北朝鮮の地域に移送された名簿についてはロシア語から日本語への翻訳が終了したところである。これを受けて、移送者名簿に記載された者の身元の特定について具体的な方法を検討し、作業を進めていく。その進捗状況、日朝関係などの状況を見つつ、今後対応を検討していく考えである」
外務省レベルの日朝交渉は1991年にスタートしているが、残念ながらこの34年間、大きな進展はみられない。
舞鶴に引揚記念館があることを知っている日本人は果たしてどれだけいるのだろうか。
この記念館はシベリア抑留の史実を後世に語り継ぎ、平和の尊さを広く世界に発信するため1988年に開館され、戦後70年の2015年9月にリニューアルオープンしている。
館内の展示物はどれもこれも戦争の悲惨さを表している。小学生の頃(1954)年にヒットし、今でも歌い継がれている「完璧の母」が息子の帰還をひたすら待ちわびていたのが舞鶴港である。
こうした置き去りにされた問題も解決されなければ、日本の戦後は終わったとは言えないのではないだろうか。