2025年5月30日(金)
「金正恩訪露」間近!?国家保衛部トップの訪露はその布石かも
李昌大保衛相(「労働新聞」から)
筆者は5月9日のロシアの第二次大戦の対独戦勝80周年記念式典には金正恩(キム・ジョンウン)総書記は訪露せず、訪露するとすれば、プーチン大統領訪朝1周年の6月19日あたりになると予測していた。露朝にとっては歴史的な「包括的戦略パートナーシップ条約」が結ばれた日であるからだ。予想通りならば、金総書記の訪露の日は近い。
その根拠の一つが情報、防諜、秘密警察の機能を担う国家保衛部の李昌大(リ・チャンデ)保衛相の訪露である。
李昌大保衛相は5月26日に平壌を出発し、ロシアを訪問した。
李保衛相の訪露は2024年3月にロシアの海外情報を統括するナルイシキン対外情報局(SVR)長官の訪朝(3月5-27日)への答礼の性格を帯びているが、表向きの理由は5月28〜29日にモスクワで開かれた安全保障担当高官国際会議に出席するためだ。この国際会議には14の国際機構と約100か国の代表が参加している。
階級が中将と大将の中間の上将である李保衛相は2022年6月に開かれた党中央委員会第8期5回拡大会議で現劇的に中央委員及び政治局候補委員に選出され、軍総政治局長に任命された鄭慶澤(チョン・ギョンテ)の後を受け、国家保衛相に抜擢されていた。
李保衛相は2024年10月14日に金正恩総書記が召集した国防及び安全分野に関する協議会にも出席しており、金総書記の信頼は厚い。
「朝鮮中央通信」によると、李保衛相は国際会議での演説で「米国の一方的な軍事覇権主義的政策は国際平和と安定の根幹を脅かす常時的要因となっている」と、対米批判を展開し、「我々はこれに強力な力で対応する」と、ロシアとの連帯を強調していた。
李保衛相はモスクワ滞在中に一昨年(7月)、昨年(9月)、今年(3月)と、3年連続で訪朝したショイグ安全保障会議書記とも会談していた。韓国のメディアは「両国の会談ではロシアに派遣された北朝鮮軍の今後の活動や戦死者の遺骨送還、捕虜問題などについて議論するものとみられる」と予測していたが、会談の詳細については何一つ明らかにされていない。
明かにされたのはショイグ書記が李保衛相にクルスク奪還のための北朝鮮のロシア派兵に「(北朝鮮兵は)まるで自分の土地を解放するごとく戦ってくれた」と感謝の意を表明していたことだ。また、「今日、露朝関係は非常に躍動的に発展している」と述べ、「露朝条約(包括的戦略パートナシップ条約)は単なる紙ではなく、塹壕の中で肩と背中を突き合わせて戦う戦場でも存在する本格的協定である」と協調していたことだ。
気になるのは、ショイグ書記が李保衛相との会談でドイツがロシア攻撃可能な長距離ミサイルの輸出禁止を解除したこととの関連で「我々も解除することがある」と発言していたことだ。自制している戦術核の使用制限を解除することを指しているのか定かではないが、クルスク州に限定されていた北朝鮮兵のウクライナ東部戦線への移動や戦闘も検討されているのかもしれない。そのためには金総書記の訪露と同意が必要だ。
昨年平壌での李保衛相とナルイシキンSVR長官との会談では両者は「敵対勢力(米国とウクライナ、NATO、韓国などを指す)の間諜謀略策動に対処するための協力を強化することについて話し合っていた。
金総書記がモスクワを訪問する場合、移動手段が飛行機になるのか、あるいは先代の金日成(キム・イルソン)主席や金正日(キム・ジョンイル)前総書記同様に列車の旅になるのかは不明だが、北朝鮮が最も警戒しているのが「敵対勢力」の動きであろう。
どの国も情報機関トップの動静については公開しないのが慣例となっている。北朝鮮が李昌大保衛相の訪露をあえて公開したのは、単に北朝鮮とロシアの蜜月関係をアピールするだけでなく、「敵対勢力」の動きを牽制する狙いもあるようだ。だとすれば、それだけ金総書記の訪露が迫っていることの証と言えなくもない。
もう一つの根拠は5月28日に金総書記出席の下、党中央軍事委員会第8期第8回拡大会議が開かれ、翌29日には金総書記が人民軍大連合部隊の砲兵区分隊間の砲撃競技を参観していたことだ。
金総書記が2023年9月12日に訪露した時もその前月の8月9日に党中央軍事委員会第8期第7次拡大会議を開いていた。また8月29日には軍総参謀部訓練指揮所で全軍指揮訓練を参観していた。
金総書記は人民軍大連合部隊の砲兵区分隊間の砲撃競技を参観した際、「砲兵をいつ、いかなる状況の下でも即時、命中砲弾を撃てる万能砲兵に準備させよ」と命じていたが、ロシアへの更なる派兵を念頭に入れているのではないだろうか。
進水に失敗した駆逐艦の引き上げ期限の6月下旬の党中央委員全員会議(総会)よりもその前の6月19日の金総書記の訪露有無のほうが関心を集めるのではないだろうか。
(参考資料:「金正恩はモスクワに現れなかった」 対独戦勝80周年記念式典欠席の理由)