金正日料理人 2003年6月
本誌編集長は2003年6月、金正日総書記の専属料理人として知られる藤本健二氏に
単独インタビュ−を行った。主な内容は「週刊ポスト」(2003年7月4日号)に掲載
されたが、未公開部分を紹介する。
――北朝鮮で働いてみないかと誘われた時、北朝鮮についてどの程度の知識を持ってい
たのか?
北朝鮮についてはほとんど知りませんでした。38度線で韓国と分裂しているという程度しか知りませんでした。平壌空港に着いて、金日成主席の肖像画が目に飛び込んできたのをよく覚えています。車で平壌に向かったのですが、街は不気味なぐらいに綺麗でした。
宿舎の普通川ホテルで歓迎会が始まるまで少し休憩するよう言われたが、ベッドに横たわっても何か落ちつかず、庭に出て煙草を1本吸ったのですが、捨てる場所がなくて困り
ました。何しろ、塵、ゴミ一つ落ちていないわけですから。
――北朝鮮に行く気になった直接の理由は?
給料が良かったからです。50万円でどうかと持ちかけられました。当時の私の給料は
22〜23万でしたから、その2倍です。悪くない話でした。そのうち30万円を日本に
いる家族に振り込んでもらい、残り20万円を現地で受け取っていました。
――どのぐらい滞在するつもりでいたのか?
最初は1年でした。それから3年契約となり、その後、将軍(金正日総書記)から「1
0年いてくれ」と言われました。私を北朝鮮に誘った日朝貿易の関係者が「1本(1億)
を用意しているみたいだ」と言っていました。「10年いれば、50万円の他に平壌に店
を1軒持たせてあげる」「利益は全部あげる」と言っていました。これは、めちゃくちゃく
に良い条件だと思いましたよ。何しろ、北朝鮮で合弁会社を運営する場合、通常は朝鮮側
が売上げの7割を持っていくわけですから。即答はしませんでしたが、商売するならば、
日本にいても北朝鮮にいてもどこにいても同じだと思っていました。
――北朝鮮に行った翌年の1983年に「ラング−ン事件」が、87年には「大韓航空
機爆破事件」が起きた。日本国内での北朝鮮のイメ−ジは悪かったはずだ。怖いとは思わ
なかったのか?
そのようなことをしてもプラスにはならないので、北朝鮮がそんな大それたことはやっ
ていないと思っていました。「大韓航空機爆破事件」の直後、8番宴会場での鉄板コ−ナ
−で、将軍が「藤本、この事件は我が国がやったと思うか」と聞かれたので、「こんなこ
とをして何かプラスになるのですか。国家のイメ−ジダウンになるだけでしょう。プラス
にならないことをやるはずがないと思います」と言うと、頷いていました。隣に座ってい
た奥様の高英姫が「そうなのよ。このような事件があると、いつも我が国のせいにさせら
れるのよ」と怒って言っていたのを覚えています。まあ、韓国もその直後に大統領選挙を
控えていたこともあって私はデッチ上げだと思っていました。
――その時の金総書記の表情は?
「俺はやっていない」という表情でした。
――しかし、トップが知らないということはあの国ではあり得ないのでは?
あり得ます。98年に弾道ミサイル(テポドン)を発射した時のことです。将軍はその
ことを知らなかったと思います。招待所ではNHKが見れるのですが、私はNHKを見て
知りしました。張成沢(金総書記の実妹の夫)もいたのですが、彼もNHKで知ったよ
うです。「私も見ていました」と言ったところ、将軍は驚いていました。
――金総書記の食事について聞きたい。寿司が好きなのはわかるが、朝は何を食べてい
るのか?
将軍は朝食は取りません。朝食は抜きです。理由についてはよくわかりませんが、太り
すぎを心配しているようです。ダイエットをしているということではないかもしれません
が、何しろ、将軍は以前は大の甘党でしたから。最初の頃(82年)は、寿司と天麩羅と
同時にチョコレ−トも一緒に食べていました。隣に座っている女性がチョコレ−トを口に
入れて上げていました。糖分が少ないせいか、チョコレ−トが受けていました。
――酒はどうか?
よく飲むし、強いですね。最高続いた宴会が4日連続でした。金主席が亡くなる前の年
か、その前の年だと記憶しています。何しろ、宴会は将軍が眠らない限り、続くのです。
同席者は大変ですよ。ですから、将軍がコックリすると、皆が安堵するのですが、突然目
を開いて「お前ら俺が眠るのを待っているんだろう」と笑って、宴会を続けさせるのです
。将軍が完全に酔いつぶれ眠ったのを確認すると、付添人らが椅子ごと寝室に運ぶわけで
す。それでやっと宴会はお開きになるのです。それはそれは大変でしたよ。
――世界中の銘柄を1万本近く収めた巨大な酒蔵はどこにあるのか?
将軍が夫人の高英姫さんと暮らしている官邸の地下にあります。ある日、将軍が「藤本
よ、日本の酒でないのは他に何がある」と言われたので、「サントリ−・インペリアルがありません」と答えると、「今度、日本に行ったら買ってこい」と言われました。5本買って届けたのですが、早速試飲していました。「これはうまい」と言っていました。将軍は自分でテイスティングできるのです。94年頃からはワインを飲み始めたのですが、何十種類のワインを取り寄せ、1日3本づつ味見するんです。「これはうまい」「これはだめ」と自ら吟味していました。
――日本酒は?
92年から93年頃、ある日突然「藤本、旨い日本酒10種類書き出せ」と言われ、思
いつくままに書くと、「全部取り寄せろ」ということになりました。そのため私は合羽橋
でとっくりやおちょこまで取り揃えました。日本酒は2〜3合がちょど良いと勧めたので
すが、飲みだすと、1升空けてしまんです。それで翌朝「藤本、日本酒はだめだ頭が痛く
なる」とこぼしていました。日本酒の中では「菊政宗」と「月桂冠」を好んでいました。
――側近らによる宴会はどのように開かれるのか?
招待場で開かれる場合は、各部屋に放送が流れるのです。「5分以内に宴会場に集合」と。「遅れた者は張成沢(金総書記の義弟で党組織指導部第1副部長)の1杯が待っている」と。「罰の1杯」で韓国で言うところの「爆弾酒」です。
――宴会では「喜び組」が登場すると言われているが、実際は?
その通りです。ダンサ−を素っ裸にさせて踊らせたこともありました。90年代の半ば
で、奥さんの高英姫がスイスに乳癌の治療に行っていて時のことで、よほど寂しかったの
でしょう。同席していた幹部らにも「お前らも一緒に踊れ」と指示していましたが、同時
に「女性の体には、指一本触れるなよ」とも言っていました。売春は絶対にさせていませ
んでした。テレビを見ていると、「喜び組」らは幹部らの夜の相手にさせられていると報
道されていましたが、嘘です。あの国ではそんなことは絶対あり得ません。自国の女性に
は売春はさせません。その代わりに外国からショ−をする女性を連れてきて、接待させて
いたようですが。北朝鮮に滞在している間、「喜び組」を幹部らに売春させていたという
話は見たことも聞いたこともありません。絶対にあり得ない話です。
――宴会では「ラバウル小唄」など日本の軍歌も歌われるとのことだが、金総書記も歌
うのか?
歌いますよ。軍歌以外では「草津良いとこ」も歌います。テレビで見て、覚えたのでし
ょう。それから、「男はつらいよ」ですね。「寅さん」の映画を翻訳しえているパク・チ
ュイという在日の帰国者がいるのですが、彼が来ると、必ず歌わせるのです。もちろん、
本人も一緒になって歌います。カラオケで歌うんですがね。音痴ではないですよ。「トラ
ック野郎」も歌います。映画で見て、覚えたんでしょう。それから「瀬戸の花嫁」も大好
きです。歌手では都はるみと、島倉千代子のファンです。一時、島倉千代子が来るんでは
ないかと言われたこともあって、私が「日本の歌手は歌い終わった後に名前を呼ばれれと
喜ばれる」と説明し、「私が『お千代ちゃん』と言ったら、皆さんも一緒に言ってくださ
い」と言うと、皆で何度も「お千代ちゃん」と掛け声の練習をしたりもしました。
――それ以外にどのような遊びをしていたのか?
ユンノリ(朝鮮式スゴロク)もあれば、バカラもあります。バッカラは20数人でやる
のですが、将軍が自ら音頭取ります。日本で言うところの、胴元です。将軍は勝負ことが
強いですよ。面白いのは、「勝負」と日本語で叫ぶんです。それと、箱の中に書いてある
番号を当てるゲ−ムもあります。その中にある商品やお金を手にすることができるゲ−ム
とか。宴会をしたり、そのような遊びをするのは、孤独だからですよ。一度こんなことが
ありました。軍部隊を視察した時、カップラ−メンを持っていたのです。軍人一人に醤油
と味噌ラ−メンをそれぞれ1ケ−スづつプレゼントしました。これが随分と喜ばれるので
す。ある時、将軍がこんなことを洩らしていました。「皆、金正日はいいやつだと思うだ
ろう」と。機関銃とか、双眼鏡をプレゼントしたと報道されていますが、あれは部隊の責
任者へのプレゼントで、一般軍人にはカップラ−メンがプレゼントされます。ちなみに、
将軍もカップラ−メンが好きで、夜食にします。一度夜中の2時頃に起こされ、カップラ
−メンを作らされたことがありました。
――某週刊誌が、「金正日には『喜び組』のメンバ−で『玉姫』という名の20代の愛
人がいる」と報道していたが、事実か?
「玉姫」は息子の金正哲の彼女で、将軍の愛人ではありません。彼女は『喜び組』のメ
ンバ−ではなく、女優です。将軍に愛人はいません。奥さんの高英姫にベタベタです。
――高英姫夫人の印象は?
綺麗な人で、目を整形したこともあって吉永小百合に似ていました。声も綺麗で、温か
みのある声をしていました。Xジャパンの歌が好きで、上手に歌っていました。プライベ
−トではマ−ジャンを楽しんでいました。マカオの貿易商から教わったようです。
――高英姫が帰国者であることは知っていたのか?
彼女は自分が在日であることは一言も言いませんでした。日本についても語りません。私との会話も日本語ではしませんでした。帰国者であることを秘密にしています。日本には何度か来ているようです。子供を連れて、ディズニ−ランドに来たこともあります。一度、康尚俊(康周一)と一緒に日本に来た時、ディズニ−ランドに行ったことがありますが、康は近くにあるホテルのスーイトル−ムを調べていました。その時には何のためにそんなことをしていたのかはわかりませんでした。後になって知ったのです。
――子供らについて知っていることは?
長男の正哲は91年9月25日生まれで、「大きな太子様(クンテジャ)」と呼ばれて
いました。バスケットが大好きで招待所には彼のためのバスケットコ−トまでありました
。車はジャガ−に乗っていました。よく友達を乗せてドライブしていました。将軍はよく
宴会中に『クンテジャはなよなよしてだめだ」と言っていました。むしろ次男の正運のほ
うが父親に似て、勝気で、相当期待されていました。次男は『小さな太子様(チャグンテ
ジャ)』と呼ばれていましたが、自分は小さくないと言って「チャグン」と呼ばれるのを
嫌っていました。兄とは4歳違いです。それに「お姫様(コンジェニム)」と呼ばれる娘
がいます。次男とはこれまた4つ違いです。
――金正男については?
宴会の場では見たこともないし。将軍から話を聞いたこともありませんでした。正直、
存在すら知りませんでした。
――金総書記の睡眠時間は?
毎日4時間しか寝ません。どんなに飲んでも4時間しか寝ません。起きて、ファクスを
見るのです。今はパソコンですが、当時は報告書はファクスで上げていましたから。ファ
クスを見るのも早いです。ファクスの規格は決まっており、1枚あたり13字×9行の形
式に成っています。それをいっぺんで3行づつ読んでいくんです。ぱっと読んで、注意が
必要なのはすぐに脇に跳ねます。全部チェックした後で、それをじっくり読むんです。私
も真似をしてみましたが、無理でした。
――健康状態はどうか?
タバコは91年頃に止めました。意志は強く、ダイエットのため断酒したこともありま
す。何日、何時から止めると言ったら絶対に飲みませんでした。心臓が少し悪いようです
ね。それと、眼はよくないですね。あのサングラスは私が日本で買っていったものです。
――金総書記が乗っている車は?
ベンツです。一時期、BMWを乗ったこともありますが、1年でやめました。将軍は自
分で運転します。車で移動する時はいつも先頭を走ります。その理由はほこりをかぶらな
いで済むからです。87年の頃だったか、突然「ゴルフ場が見たい。案内しろ」と言われ
て、一度だけ将軍の車の前を走ったことがあります。車間距離をかなり置いて走りました
。将軍はゴルフはやりません。見学しただけです。「藤本、我が国のゴルフ場はどうか」
と聞かれたので、「芝が固く、石がゴロゴロあってゴルブ場にしてはどうかと思います」
と答えました。あのゴルフ場は無理やり作ったという感じでした。
――金総書記の専用機はあるのか?
あります。「216号」と呼ばれています。機種はわかりません。将軍が乗っていると
いう話はあまり聞きませんでした。奥様が外国に行くときに利用しています。私も一度乗
ったことがあります。20〜30人用の座席がありました。個室もありました。スチュワ
−デスはいません。直属の付き人や専用のウェ−タ−らが同乗していました。
――金総書記はジェットスキ−をするのか?
一度、「藤本、勝負しよう」と言われ、二人で競ったのですが、私が勝ってしまいまし
た。それも、幹部らが見ている前で。皆「将軍様に勝つなんてとんでもない奴」と呆れた
表情をしていました。私もまずかったとおもったのですが、何しろ、本気でやろうと言わ
れていたので、ついその気になってしまって。将軍はよほど悔しかったのでしょう。しば
らくして「もう一回、勝負しよう」と挑んできました。言わば、リベンジです。将軍は負
けず嫌いの性格です。将軍のジェットスキ−にはより強力なエンジンが装着してありまし
た。当然、2度目は私が負けました。
――金総書記はボ−リングもするのか?
いや将軍はやりません。見るだけです。ある日、宴会の席でボ−リングの話をしたので
す。私の最高スコアは257で、7フレ−ンまで全部ストライクばかりだったと。そうし
たら、将軍が「藤本、ストライクを3つ続ければ、5千ドル出そう。失敗すれば、5千ド
ル出せ」と言うのです。やばいと思って「少し練習してから考えます」と答えておいて、
その場は何とか逃げました。とにかく、賭け事、勝負事が好きです。ボ−リングは招待所
内にあります。
――金総書記はパソコンもやるのか?
94年頃から報告はファクスからパソコンのメ−ルに変わりました。金正日自らキ−ボ
−ドを叩きます。一度、専門家が来て、指導したのですが、呑み込みは早いです。
――著書の中で何者かが超小型のビストルを所持していたことが問題になったと書いているが、どういうことか?
ピストルは乗馬用ズポンの中から発見されました。当時、権熙京党調査部長が韓国の安
企部(国家安全企画部)と関係があったが、彼は馬には乗らないので。誰が所持していた
のかわかりません。直ちに調査したようですが、どうなったのか結果については知らされ
ませんでした。権熙京は粛清されています。おそらく処刑されたのでしょう。
――金総書記に「影武者」がいるのか?
影武者はいませんが、似ているのがいると聞いてます。一度、将軍の映画をつくること
になり、それで見つけたようです。映画は製作されませんでしたが、とにかくそっくりだ
ったと聞いています。私は見たことも、会ったこともありません。
――金基南書記が95年12月30日に「核施設で働いている労働者が髪や歯が抜けて
いる」との報告を金総書記にしていたと書いているが、その時の状況にもう少し詳しく説
明して欲しい。
この時のことはよく覚えています。ちょっと緊迫したような話をしていました。確か、
その前日に将軍は涙をこぼしながら『なぜ自分の方から撃つことができないのか』と嘆い
ていました。「なぜ、一発ぶち込めないのか」という意味のようでした。何事もやってみ
なければわからないだろうと考えるお方でしたから。
――著書の中で同じ95年12月30日に7人の大将が背揃いしていたとの箇所があるが、24人を処刑した話はこの場で飛び出したのか?
「あの連中を撃ったか」と言っていた。その時は本当に身震いしました。
――なぜ、射殺された数が24人とわかったのか?
正確な数字は知りません。だいたいそのぐらいだろうと思いました。
――それは「社会主義青年同盟事件」との関連か?
軍関係ではないかと思います。ク−デタ−の動きがあったのかも知りません。軍隊には内部報告する人が必ず2人から3人います。おとり捜査もありますよ。誰が射殺されたかは具体的な名前までは知りません。
――著書の中で李奉遠大将だけは他の幹部らとは違って貴方のことを「藤本」と呼びつけしなかったと書いていたが、韓国で言われているように李奉遠は処刑されたのか?
彼は途中から宴会に呼ばれなくなりました。彼が使用していたチョコレ−ト色のベンツ
は私が乗ることになったのですが、一度車で大同江沿を走った時、彼が一人ポツンと
立っているのを見かけたことがありました。処刑ではなく、病気で亡くなったと聞いてい
ます。
――日本人拉致について知っていることは?
全く知りませんでした。正直、テレビを見て、驚きました。
――なぜ本(「金正日の料理人」)を出そうと思ったのか?
私なりにけじめをつけたかったのです。世界で私しか知らないことを今明らかにしたか
ったのです。今公にしなければ手遅れになると思って証言することにしたのです。もちろ
ん、悩みました。将軍からは随分と恩恵を受けましたからね。
――報復を恐れたのも悩んだ理由か?
それは、本を出しても、出さなくても同じだと思います。何しろ、向こうで「裏切った
ら殺す」と言われていましたから。
――本を書くにあたって気を付けた点は?
政治的なことは一切省きました。所詮、政治はよくわかりませんから。ただ、自らが体
験したことだけを書きました。金正日に関する報道をみていて、何でこんなふうに報道さ
れるのだろうか、あまりにも酷評し過ぎると思っていました。そんな悪の塊のような人物
ではないと思っていましたから。
〔藤本氏の経歴〕
82年8月 1年契約で北朝鮮に渡る。「安山閣」で働く
10月 「元山招待所」で寿司を握る
83年5月 店の責任者と喧嘩して日本に一時帰国
87年8月 再訪朝。高麗ホテル地下食堂で働く
87年暮れ 日本に一時帰国
88年1月 3度目の訪朝。ベンツ−を貰う
5月 金総書記から「私の側に10年いてくれないか」と要請される
89年1月 日本にいる妻との離婚のため帰国
2月 北朝鮮の女性と再婚。91年までの3年間金正日官邸に勤務
96年9月 香港経由で帰国した際に逮捕される
10月 釈放。
11月 石垣島のホテルに就職
98年6月 北朝鮮で働くことを決意し、北朝鮮へ
11月 二度と日本に戻らないとの念書を書く
00年4月 金総書記の下での仕事を再開
7月 金正日ファミリ−と白頭山に登る
8月 パスポ−ト再申請のため日本に一時帰国。北朝鮮を離れることを決意しながら再度北朝鮮へ。
01年4月 食材買い出しを理由に北朝鮮を脱出
(2003年7月号)