日本人妻、平島筆子 2003年1月24日
昨年(2002年)11月、中国への脱出に成功した日本人妻、平島筆子さんは現在も中国に潜伏している。平島筆子さんは、1月6日川口外相に嘆願書を提出し、日本への帰国を懇願しているが、日本政府は中国の了解が得られ次第、日本に連れてくる方針だ。インタビュ−内容は次のとおり。
−−どのようにして中国に渡って来たのか?
川が凍っていたので歩いて渡ってきた。会寧から中朝国境まで徒歩できた。一人で渡ってきたので怖いことは怖かった。幸いなことに検問には会わなかった。河を夜に渡ったこともあって。
−−なぜ中国に脱出しようと考えたのか?
日本にいる妹に一目会いたいからです。また亡くなった父母の墓参りがしたくて。私も歳をとり、もうそれほど長生きはできません。せめて死ぬ前に肉親の妹の顔を見たくて。
−−北朝鮮での生活ぶりはどのような状況だったのか?
食料もなく、苦しかったです。配給が途絶えてから6年、7年経ちました。正月には少し配給がありましたが、ほとんど無いに等しいです。それで、山に入って、木を伐採し、巻にして売って糧にしていました。それ以外にもセリなんかを採って、市場に持っていき売ったりしまいました。そのお金で、とうもろこしを買って、それを潰し、粉と一緒に混ぜてお粥にして食べたりしていました。以前はそれでも白米も食べられたのですが、ここ10年間は1年に1回、ないしは2回程度しか口にできませんでした。
−−日本からの仕送りは?
ありませんでした。あるかないかで随分違います。北朝鮮でもよく暮らしている帰国者は日本の親類から手伝ってもらっているからです。お金さえ送ってもらえれば、北朝鮮でも苦労せず生活できます。援助のない人は私のようにみな悲惨です。私が住んでいたところでは私のところが一番苦しかったです。
−−日本人なのに?
日本人でも、帰国者でも、現地の人でも、力のない人は皆同じです。良いところで働いている人はそれなりに良い暮らしをしています。私らのように歳とると、だめです。女一人では何もできません。
−−日本政府への要請は?
主人について北朝鮮に渡ったけど当初は3年に1回は日本への里帰りがでると聞いていました。だから子供が生まれて三つになった時は両親に会えると思っていました。それが、3年が過ぎ、また3年が過ぎ、いつの間にか、43年の歳月が過ぎてしまいました。だいたい、日本人妻の場合、朝鮮の夫の先絶たれています。一人で暮らしている人が結構います。子供らは主人の性なので朝鮮人として生きていますが、私らはどうしても親兄弟を忘れることができません。だから、自由に行ったり来たりできる日が来るのを待っていました。日本政府にお願いしたいことがあります。一日も早く妹に会いたいのですが、私一人の力ではどうにもなりせん。お金も一銭もないし、もう北朝鮮に戻ることもできません。何とか、力になってください。
−−妹さんに会ったら何を話すつもりですか?
これまで姉らしいことは何一つできませんでした。妹にはお父さんとお母さんが亡くなった時も世話になったし。長女なのに何もできず、妹に迷惑かけてばかりです。それで、一日も早く妹に会って礼が言いたいのです。両親が亡くなったのは妹からの手紙で知りました。お父さんもお母さんも行くなと言ってくれたのに振り切って来てしまい、結果として親の死に目にも会えませんでした。両親は私のために言ってくらたのですが、その時は何もわからず夫について来てしまいました。今は後悔しています。
−−北朝鮮に行くときはこんなことになるとは想像していました?
想像もしていませんでした。主人は朝鮮は昔から良く暮らすと言っていました。私のところは、日本でもどちらかと言うと、生活が苦しかったので、朝鮮に行ったら良い生活ができると思っていました。また、結婚した以上、主人について行くべきだと思っていました。その時は私も若かったし。
−−ご主人は帰国後どうされたのですか?
私もなにがなんだかわからないのです。帰国してから10年目のある日、職場から帰ってきた所、突然知らない人が来て連れていってしまったのです。それ以来、今日まで何の消息もありません。生きているのか死んでいるのかもわかりません。私は主人だけが頼りでついてきたのです。その人がいなくなってしまったのですからそれはそれで仕方がありません。
−−それからどうしました?
主人がいた時は平壌で暮らしていました。ところが、夫が連行されてから4か月ぐらいすると、急に平壌から出て行け、山奥に行けと命じられました。大きい娘が職場から戻ってきて言うのです「お母さん、荷造りして、どこかに引っ越ししないとだめだ」と。主人の職場の人らが来て、荷造りを手伝ってくれました。列車に乗って着いたところは田舎というよりは山奥でした。一番上の娘は仕事に出ましたが、私は体が悪くて仕事ができませ
んでした。