金国石元人民軍大尉 2003年10月15日


 韓国に亡命した元人民軍軍人が北朝鮮にいた頃、日本人を目撃したとの情報をキャッチ した。本人の意向により経歴を詳細に明かせないが、この軍人は金国石(仮名)朝鮮人民軍偵察局大尉。金大尉は馬東熙大学を卒業後、人民軍偵察局に配属され、その後、国家安全保衛部に転属した。海外出張中の2000年に東南アジアを経由して韓国に亡命した。彼の父親は軍人であれば、誰もが知っている英雄称号を授与された将軍である。以下一問一答。

●馬東熙大学について


 ――このリスト(特定失踪者の公開写真)の中に北朝鮮で見たことがある人は?

 この男性(斉藤裕さん)と、この女性(松本京子さん)を見ました。男性は、馬東熙大学で見ました。女性は清津連絡所で見ました。このリストには載っていませんが、もう二人見ています。(市川修一さんと増元るみ子さんの写真を示す)そうこの二人です。

 ――この二人を(市川さんと増元さん)いつ、どこで目撃したのか?

 1990年から92年の間に馬東熙大学で目撃しました。

 ――馬東熙大学は初めて聞く名前だが、どんな大学か?

 人民軍偵察大学のことです。人民軍偵察指揮官を育成する学校です。以前は鴨緑江大学と呼ばれていました。校名が変更した正確な時期についてははっきり覚えていませんが、1988年か89年頃に変わったと思います。馬東熙大学は平壌市の寺洞区域で、松新橋のあるところです。敷地は広いです。大学は4年制ですが、私は偵察指揮官育成部門だったので2年制でした。2年で卒業すれば中尉の階級が与えられます。4年生は技術部門です。盗聴や通信、それに外国語を専門に覚えます。4年制を卒業すれば上尉(中尉と大尉の間)となります。学生数は1千7百人で、教職員や勤務している人を含めると、2千人程度になります。

 ――この学校の存在は一般に知られているのか?

 正門には「馬東熙大学」という名の表札が掛けられています。付近の住民は偵察学校だということを知っています。民間人は近寄ることはできません。

 ――学校名が変更された理由は?1988年に変更されたということは、前年の大韓航空機爆破事件で工作員、金賢姫が韓国に囚われたことと直接関係しているのか?

 関係ありません。当時、軍事学校や士官学校、一般大学の間で抗日パルチザン運動をした人や朝鮮戦争やなんかで功労のあった人の名が校名として冠すようになったのです。馬東熙という人は1930年代の金日成パルチザン部隊の偵察隊員として知られた人で、確か1937年頃だと思いますが、金日成の任務を受け、国内に潜伏、偵察活動中に日本軍に囚われ、秘密保持のため舌を切って自決した人です。

 ――その大学は高校卒業者ならば誰でも入学できるのか?

 違います。軍偵察機関による推薦制です。人民軍連隊内の偵察小隊、師団偵察中隊、軍団偵察大隊、それに人民武力部偵察局傘下偵察旅団から選抜されます。軍服務期間が3年から5年の下士官らが推薦の対象となります。韓国のように民間人は入れません。生徒は全員、職業軍人です。生徒は全員、学校の寮で生活しています。1大隊、2大隊と、大隊別に寄宿舎生活をしています。教官らは家庭を持っていますので通勤していました。

 ――馬東熈大学での生活は?

 軍隊生活と変わらないです。午前中に4つ講義を受けます。最初の2時間は思想と政治 教育です。労働党の政策とか、金日成、金正日の思想を学びます。後の2時間は隊列訓練 や行進、敬礼の仕方、軍規律について教わります。午後は野外訓練です。体育、運転、射 撃、行軍など。訓練は厳しいです。土曜の度には夜間行進訓練があります。普通は10k mです。月末(月に1度)は40kmを5時間から6時間かけて歩きます。軍事訓練も射 撃術だけでなく、韓国軍、米軍の兵器など西側の兵器の扱いも覚えます。小銃から携帯用 対空ミサイルまで覚えます。北朝鮮の軍事学校では崔賢軍官大学に次いで厳しいです。崔 賢軍官大学は韓国で言うところの空輸、特戦司将校育成学校のような大学です。最も厳し い学校です。平安北道泰川にあります。

 ――貴方は、馬東熙大学にいつ入学し、いつ卒業したのか?

1990年7月に入学し、92年8月に卒業しました。卒業当時は23歳でした。

 ――卒業後、どこに配属されたのか?

 人民軍偵察局、地方の偵察局です。偵察局の本部は平壌にあります。北朝鮮各地に各作 戦組、偵察組、3人組があります。私は江原道(普川)に軍官として配属されました。大 学を卒業すると、連隊偵察組隊長、師団偵察中隊小隊長として配属されます。また、作戦 組(3人で構成される偵察組のことです)に配属され、浸透を目的とした訓練もします。 訓練中にどの組にどのような任務が出されるのかは誰もわかりません。命令が下れば、1 か月ぐらい浸透するタ−ゲットの地形や使う装備を集めるなど準備します。96年の潜水 艦座礁事件はあれは偵察局の作戦組によるものでした。彼らは私にとっては後輩でした。 実は私は作戦組に1年いました。訓練は固定した基地ではなく、北朝鮮全土でやります。 戦闘員3人に6人が補助として付きます。補助員も一般兵士です。食事の世話から洗濯ま でやってくれます。

 ――実践訓練の内容は?

 人民軍偵察局は対南連絡所とは異なります。連絡所は対南浸透とか、要人や日本人の拉 致、産業スパイなどをやりますが、私たちの場合、目標が異なります。例えば、日本にあ る米軍の主要基地、海・空軍基地、日本の主要レ−ダ−、飛行場、産業施設、原子力施設 などの偵察です。戦争になれば、日米韓との戦いになるので。日本は補給、兵坦基地とな るでしょう。米軍の増援を遅滞させる必要があります。ミサイルでの日本攻撃は精密度が 落ちます。最も確実なのは現地に人を送って、人がやる方法です。ミサイルでだめならば 肉弾攻撃を仕掛けるのです。

 ――日本に浸透する目的は?

 労働党連絡所戦闘員の場合、日本にいる要員らと会うのが目的のようですが、偵察局の 場合、軍事施設や産業施設の撮影にあります。春と秋、2度浸透します。現地に変動、変 更がないか、浸透して、観測、撮影するのです。北朝鮮で最終的に作戦を樹立する人が地 図でそれを確認します。米国と違って、偵察機がありませんので、随時来てやるのです。

●市川修一さんについて


 ――二人の写真を見て、どうして市川さんと増元さんと言えるのか?

 大学で何度も見ましたから。一度だけならば、写真を見せられても無理です。(市川さ んについて)それと、日本人だから覚えているのです。髪は写真よりも短かく刈っていま した。前髪は同じです。この写真は少し弱く見えます。

 ――何回見たのか?

 (市川さんについては)少なくとも10回以上は見ました。30代後半ぐらいに見えま した。彼は教官でした。正式に言うと学校教員です。学校で日本語を教えていました。風 習から地理、地方の訛りにいたるまで教えていました。常勤なのか、非常勤なのかわかり ませんが、見たところ非常勤のようでした。他の大学でも講義をしていたようです。中央 党35号室とか、党調査部職員らと一緒に小型バスや乗用車で通勤していました。

――彼(市川)は大学で何と呼ばれていたのか?彼の朝鮮の名前を?

 記憶は正確ではありませんが、キム・イルチョルとか、キム・ミョンチョルと呼ばれて いました。

 ――教室では彼が日本人だということは知れ渡っていたのか?

 誰もが皆、知っていました。というのも、彼の朝鮮語がたどたどしかったからです。朝 鮮語の発音が悪かったのです。彼は講義しろというからさせられていたのでは。私は2年 制の短期で学んでいました。日本語を専門に勉強する4年制にはいませんでした。偵察指 揮官として最低限必要な外国語として英語や日本語、中国語、それにロシア語を学んでい たわけです。しかし、4年制の技術偵察科などでは専門に日本語だけを学ぶので、一日2 時間から3時間日本語の講義を受けます。ですから、私が(日本語の)授業を受けたのは 1人でしたが、おそらく日本人教官は1人や2人ではなかったでしょう。他にもいとと思 います。

 ――最初に授業を受けたとき、彼は自分が日本人だと自己紹介したのか?

 いや、しませんでした。ただし、他の教員が教室に入って来て、「講師には学ぶ科目に 関する以外のことは質問しないように」との注意事項がありました。その後、彼が入って きたのですが、民間人の服装をしていました。他の教員らは軍服を着ているのに彼は背広 とネクタイでした。北朝鮮の人とは明らかに違っていました。おとなしい感じの人でした 。我々には先生と私的に会話する機会も時間も与えられませんでした。ある親しい先生に 聞くと『彼は日本人だ』と言っていました。「日本人がどうして来ているのか」と不思議 に思いましたが、招請する場合もあるだろうと推測したりしました。彼に限っては、北朝 鮮の社会主義に憧憬を抱き、日本から来たのだと思っていました。

 ――彼の朝鮮語の発音はそんなにたどたどしかったのか?

 とにかく、明らかに平壌語ではありませんでした。自然ではありませんでした。だから 講義を受けて、同じ朝鮮人ではないことがすぐにわかったのです。

 ――在日朝鮮人(帰国者)と間違えているのでは?

 違います。国家安全機関では帰国 者は絶対に使いません。私も偵察機関や国家の安全機関にいたからある程度輪郭がわかる のですが、国家の安保機関には在日同胞は絶対に使いません。でなければ、日本人を拉致 する必要はありません。

 ――在日同胞を信用してないということか?

 信用していません。在日同胞出身者は軍隊にも入れませんでした。今では軍隊に入隊す る程度はできますが。それでも国家安保機関に接近する位置にはなれません。

 ――その理由は?

 在日同胞が北送された当時の国家安全記録を見たことがありますが、それをみると、当 時帰国者の中には南(韓国)の指令を受けスパイをしていた人が随分いたようです。

 ――彼からどのような日本語を教わったのか?

 初歩的な言葉、常識的な言葉ぐらいでした。挨拶、礼儀法も。「おはよう」「こんにち は」「今晩は」など。食堂での注文の仕方とか。日常生活用語などを多く学びました。ひ らがな、カタカナなど字も教わりましたが、ほとんど忘れてしまいました。日本語だけで なく、英語も覚えなくてはなりませんでしたので。私自身は日本語にはあまり関心はあり ませんでした。

 ――その他、知っている日本語は?

 「すみません」「ありがとうございます」「本当にありがとうございます」とか。先生 (市川)は関東語と関西語の違いも言ってました。私たちは小学生のようにただ従うだけ でした。専門にしていたらもっと勉強していたでしょう。専攻でなかったので、偵察指揮 官として常識的な言葉だけしか学びませんでした。戦争になれば、米軍も日本軍も相手に しなければならないので。

 ――記憶にある字を書いてもらいたい。

 ※「の」という字を書く。  日本語は本当に複雑なので。思い出せないな。

 ――彼の性格は?怒鳴ったりしていたか?

 いや。静かな口調でした。講義は日本語でしていましたが、いつもスペイン語やフラン ス語の辞典などを持っていた。

 ――彼が市川さんならば当時の年齢は35歳。外見は?

 頭の髪に白いものはなく、眼鏡もかけていませんでした。他の時はどうか知りませんが 、講義の時はみたことがありません。運動を好むタイプにも見えませんでした。活発な感 じは受けませんでした。何か悩んでいた感じでした。何を考えているのかよくわからない という感じでした。

 ――朝鮮人は喜怒哀楽が激しいが、彼の印象は?

 内心よくわからないという感じでした。彼を管轄している上の人は知っていると思いま すが、気分が悪いのか、嬉しいのか、どこか痛いのか、よくわかりませんでした。心の中 を見せませんでした。やはり、彼が日本人だと思ったのは、授業が終わって、私たちが敬 礼すると、腰を曲げてお辞儀をするのですね。朝鮮人教官はそんなことはしませんから。 昼は学生と教職員は別に取ります。学校の外で会ったことは一度もありません。

●増元るみ子さんについて


 ――増元るみ子さんはどこで見たのか?

 91年の秋に学校で運動会がありました。教職員も夫婦一緒で来ていました。彼らも一 緒に座っていました。コ−ラ−を1本持って行ったのを覚えています。当時北朝鮮では一 般人がコ−ラ−を手にすることができませんでした。一般の学生は教職員のいる所には近 寄れなかったのですが、私は学級長でしたので、私が持って行きました。先生は立ち上が って「あっ、ありがとう」「ありがとう」と何度もお礼を言っていました。その時、隣に いた女性(増元さん)もゆっくりとした口調で「ありがとう」と言ってましたのをよく覚 えています。白っぽい服を着ていました。眼鏡は掛けていませんでした。服装は白っぽい 服で、運動服のようでした。帽子は被っていませんでした。ヘア−スタイルは写真とほぼ 同じでした。二人とも競技には参加していませんでした。

 ――二人の側に子供はいなかったのか?

 いや見ませんでした。

 ――この女性を見たのは運動会で一度だけか?

 この日、運動会が終わった後、映画の撮影がありました。「民族と運命」という映画で した。韓国国軍士官学校の卒業式を撮るためです。映画には大学の建物が移っている筈で す。私たちもエキストラとして動員されました。二人は映画には出ませんでしたが。女性 はもう一回見たような気がします。

 ――市川さんは元山の海岸で溺死したと発表されている。元山の海で泳いだことは?

 松濤海水浴場しかないでしょう。泳いだことはあります。あんな浅瀬で溺れるわけない でしょう。深い所には境界線が張ってあって、出られないようになっています。そんなと ころに一人で、それも拉致した日本人が溺れるまでほっておくわけないでしょう。話にな りません。

 ――なぜ、「溺死した」と発表したと思うか?

 (死亡者扱いされた人については)出したらまずいので、北朝鮮としては仕方なくそう 発表せざるを得なかったのでは。昔亡くなったため遺骨の発見も難しいと。拉致した人に 共通しているでしょう。死亡日が早いのは遺骨や遺品を求められるのを念頭に入れてのこ とではないかと推測されます。

 ――彼らには墓がない理由は?

 そのことについてはよくわかりません。当時は火葬場はありませんでした。今はどうか しりません。連絡所の戦闘員とか、金正日政治軍事大学に勤務している人が亡くなれば通 常は龍城区域のヨンブンの墓地に埋葬されます。ここに埋葬されているならば、水害で流 されることはありえません。北の発表は嘘だと思います。

 ――拉致した人が抹殺された可能性は?

 その可能性はあります。反抗したり、言うことを聞かない場合は。彼らには良心のかけ らもありません。でなければ、拉致などしないでしょう。

 ――なぜ、北朝鮮は5人を出して、市川さんらは出さないのか?

 日本に返したらまずいので出すわけにはいかないのでしょう。日本に戻って来れた5人 の被害者は北朝鮮にとって彼ら(8人)ほど重要ではなかった。そうとしか思えません。

●斉藤裕さんについて


 ――馬東熈大学ではこの人(斉藤裕さん)も見たのか?

 彼も大学の教官でした。彼は軍服を着ていました。同じ時期に見ました。

 ――市川さんと彼は同じ学校にいたわけか?

 同じ学校にいましたが、一緒に出勤、退勤したところは見たことがありません。常駐し ていたかどうかはよくわかりません。2年制ではなく、4年制の語学専門科で日本語を教 えていました。4年制の友人らは「我々に日本語を教えている人は日本人だ」と言うと、 「我々にも日本人がいる」と言っていました。「あの人も日本人」だと言うので見たら、 軍服を着ていました。その後、構内で何度か見かけました。

 ――彼(斉藤)が日本人だということは知れ渡っていたのか?

 4年制の技術偵察学校で学んでいる人は皆、知っていたようでした。

 ――彼の朝鮮名は?

 彼と話したことがありませんので、わかりません。 

 −−彼の階級は?

 上尉でした。

 ――当時、幾つぐらいに見えたのか?

 30代後半のようだった。軍服を着ていることは結婚していたと思います。軍服を着て いることは北朝鮮から信任を受けている証拠です。本人が望まなくとも当然、家庭を築か せてあげている筈です。

 ――背は?

 大きいほうではなかった。169cmから172cm程度。がっちりしていました。 インテリ−のような印象は受けなかった。

 ――髪形は?

 前髪はこの写真と似ています。しかし、横は短く刈っていました。実は私の友達にそっ くりなのがいて、「お前の兄貴では」とからかったりもしました。顔は(写真と)ほとん ど変わっていません。

 ――貴方以外に彼を1978年に目撃した人物(権革・元国家安全保衛部指導員 No .436参照)がいる。

 私よりも十数年前に見たというのですか?

 ――1978年と言えば、斉藤さんが28歳の時だが、「泰川にある57軍校で目撃し た」と証言していた。

 昔のことはよくわかりませんが、そんな学校は今は存在しないのでは。国家安全保衛部 には5454部隊などはありません。人民武力部傘下ならばわかりませんが。

 ――その人物は「28歳で大尉だった」と証言しているが...

 常識的にありえません。28歳で大尉とは。国家保衛部傘下部隊になぜ日本人が必要な のか分からりません。連絡所など海外に進出する要員以外は必要ないのでは。国家保衛部 は反党を摘発する対内用ですので。なぜ日本人教官が軍服を着て、保衛部傘下要員を教育 するのかわけがわかりません。

 ――対南連絡所要員の場合は必要では?

 可能です。基本的に彼らを教育するために拉致してきたわけですから。仮に、日本で行 方不明になった人のうち10分の1を北朝鮮が拉致したとしましょう。彼ら全員が語学教 育に勤務するわけではありません。半導体や電気部門の技術者も必要とします。北朝鮮は 1986年から87年にかけて自力で半導体を開発しました。この分野でも日本人が使わ れたのでは。

 ――もう一度、間違いがないか、彼(斉藤)を見てもらいたい。

 そっくりです。この写真よりも髪が少し薄くなっており、頬骨が少し出ています。前髪 はほぼ同じです。

●松本京子さんについて


 ――清津対南連絡所で見た女性は間違いなく、彼女(松本京子さん)か?

 1994年11月から1997月5月までの間、清津労働党連絡所で4度見ました。写 真と変わりありません。ヘアスタイルだけ少し変わっています。化粧は薄化粧でした。

 ――清津労働党連絡所とは対南連絡所と呼んでいる所か?

 北朝鮮での公式名称は数字で呼ばれています。労働党第313、715連絡所とか。例 えば、元山連絡所は62連絡所でした。一般人にとって連絡所は対南と考えているようで すが、対南だけではありません。但し、私が理解している限り、対日を担当している連絡 所は清津連絡所一つしかありません。それだけに施設は大きく人員が多いです。700人 程度いました。そのうち工作船に乗る戦闘員は120人ぐらいだと思う。大きな探知レ−ダ −もあります。

 ――その時の貴方の肩書は?

 国家安全保衛部指導員でした。保衛部要員は全員、指導員です。韓国の国家情報院は要 員と呼ばれていますが、我々は指導員と呼ばれています。対南連絡所には知り合いがいた のでよく行きました。

 ――国家安全保衛部は幾つ課があるのか?

 区域保衛部ですと、9つあります。私はスパイを捕まえる仕事をしていました。

 ――最初に見て、どうして日本人と分かったのか? 

 連絡所には北朝鮮の女性がいましたが、彼女らとは明らかに異なっていました。

――松本さんは1977年、29歳の時に拉致されている。94年から97年にかけて 見たというならば年齢は50に近い。その女性の印象は?

彼女は少し明朗な性格のようでした。話をする時も笑いながら話していました。

 ――彼女も教官をしていたのか?

 それはよくわかりません。友達に「彼女は何をしているのか」と聞いたら、「日本語を 教えている」と言っていました。日本からの資料を翻訳したり。日本のラジオやテレビ放 送なども試聴したりしていると。連絡所の戦闘員は常時、1年に一度再教育を受けます地 方の連絡所にいても、平壌の金正日政治軍事大学に来て、短期教育を受けます。

 ――彼女は当時結婚していたのか?

 よくわかりませんが、結婚していないとは言えません。清津連絡所に日本人男性が一人 いました。もしかしたら、彼が夫かもしれませんね。私は見たことはありませんが、日本 人男性が一人いるとは聞いていました。

 ――彼女に関して最も印象に残っていることは?

 彼女とは言葉を交わしたことが一度あります。連絡所の庭に日本から運ばれた中古車が 数十台ありました。96年5月頃だったと記憶しています。私の知人が貿易会社の社長を していました。私よりも20も年上でした。個人的に親しかったのです。その社長から乗 用車を1台なんとかしてもらえないのかと頼まれました。貿易社長といっても、連絡所に は近寄れません。私は連絡所に人脈がありました。相談したところ「自分で来て、千ドル で持っていけ」と言ってくれました。ほぼ新車は1万ドルで取引されます。古いものでも 3千から4千ドルします。それで、貿易社長を門の外に待たせて、私一人中に入っていき ました。普通は中に入るにはサインしなければいけないのですが、私の場合はフリ−パス です。中に車が数十台ありました。彼女はそこで車を見ていました。私は日産ブルバ−ド を探そうとしたのですが、彼女がその車をじっと見ていました。座席に座ったりしたりし て。そして、いろいろと説明していました。そのうちトランクを開けたのですが、小さな ゲ−ム機みたいなものが出てきました。彼女は連絡所の参謀長に「これ貰ってもいいです か」と聞いていました。「もっていってもいいよ」と言われていました。私が彼女に「こ の車、見るの初めて?」と聞くと、「初めて見たわけではないが、以前よりも随分よくな った」と答えたのです。「こんな車は前から随分入っているよ。市内にも多いし」と言っ たのですが、彼女は知らなかったようです。ということは市内に出ていないということで す。

 ――なぜ、写真を見ただけで、その女性が松本京子さんと言えるのか?

 私がなぜ「キョウコ」という名前を記憶しているかといえば、参謀長が「キョウコさん 、ドライブしない?」と言ったら、彼女が笑いながら彼の肩を叩いたのを覚えているから です。私はそれまで「マサコ」「ミチコ」という名前は知っていましたが、「キョウコ」 という名前はその時、初めて耳にしました。40代前半に見えましたが、北朝鮮では40 代で赤い色の服を着ているのは珍しいことです。ヘアスタイルも北朝鮮の女性とは違って 精練されていました。馬東熈大学でも日本人を見ていましたし。連絡所に日本の女性がい るというので好奇心がありました。

 ――拉致は韓国に来てわかったのか?

 昨年9月に小泉総理が訪朝した際に北朝鮮が認めたことで「あの人らは拉致去れた人だ ったのか」と衝撃を受けました。それまでは北朝鮮が言うように北朝鮮の社会主義に同調 して自ら進んで来たのかと思っていました。日本にはチュチェ思想研究会なども多くあっ たので、そう信じていました。