権革元国家安全保衛部指導員 2003年5月12日


 1999年に韓国に亡命し、2003年5月初旬に来日し、日本の報道機関に日本人拉致問題について証言した北朝鮮の元国家安全保衛部指導員の権革氏に会い、拉致問題についてさらに詳しく聞いてみた。以下は、一問一答である。

▲「5454部隊」について


 ――「57軍校」とか「5454部隊」というのは初めて聞く名前だが、どのような所か?

 「57軍校」は元ジャンバ−部隊の隊員らを中心に金日成主席の直接指示によって76年に創設された特殊機関です。ジャンバ−部隊は隊員が金日成の指示よりも隊長の指示に服従していたことから問題となり、解散させられたが、76年に「ポプラ事件」(板門店で米軍警備兵が北朝鮮警備兵に殺傷された事件)で軍事緊張が高まったことから再度集められ、結成された機関で、「カラス部隊」と呼ばれていました。

 私は74年に人民軍に入隊し、2年後にはすでに党員となり、76年にこの軍校に配属されました。同校は信じられないと思うかもしれませんが、朝鮮半島有事の際に日本にある米軍基地を肉弾攻撃する決死隊です。日本で言うところの特攻隊です。入隊したら二度と生きては戻れないと言われていました。それで、私のことを不憫に思った母が、現在、金正日の側近となっている叔父を通じて、他の部隊への配置を要請したのですが、移動した部隊が5454部隊でした。

 5454部隊も日本を攻撃する部隊には変わりありません。但し、私の任務は「57軍校」でも5454部隊でもスパイや不満分子、脱走兵、あるいは不正を摘発するのが任務でした。ドイツのゲシュタボのようなものです。実は、544部隊については韓国当局にもこれまで一切伏せていました。細かいことは言えませんが、この部隊には日本のすべての通信、電波を探知して、解釈、分析する部隊もあります。

 ――5454部隊の攻撃タ−ゲットはどこか?

 嘉手納基地、横田基地、三沢基地など在日米軍空軍基地が攻撃対象となっていました。5454部隊は現在、平壌の東大院区域にある三馬というところにあります。近くに鉄塔があるのですが、鉄塔から落下訓練がよく行われていました。しかし、私が日本のマスコミに5454部隊の存在と位置を明かした以上ここからはいなくなることでしょう。

 ――韓国に亡命して4年経った今頃、なぜ日本人拉致を話そうと思ったのか?小泉総理の訪朝で拉致問題が騒がれていたことは韓国でも知っていた筈だが。

 正直言って関心がありませんでした。また知っていてもしゃしゃり出て話すほど重大な問題とはみていませんでした。実際に当時は話す機会も、相手もいませんでした。たまたま同じ脱北者の妻に手記出版の話が持ち上がり、ある日担当の出版者が日本人ジャ−ナリストを連れて自宅を訪れた時に鉢合わせしたのがきっかけでした。

 私の経歴を知ったその日本人ジャ−ナリストから日本人拉致のことを聞かれたので「私の部隊にもいましたよ」と答えたのです。驚いたその日本人ジャ−ナリストが後日、写真をもってきて「見覚えのある人がいれば、教えてもらえないか」と言うので、「これ、これ」と答えたまでです。実は、私が韓国情報機関の国情院(国家情報院)から口止めされていたのです。「マスコミにあまり喋るな」と。北朝鮮との関係上、あるいは自分らの仕事の上で私の存在を知られたくなったのでしょう。

 それでも日本のマスコミがどうしても日本人拉致について話を聞きたいと言うので、一応国情院の私の担当者に相談しました。すると、「仕方がない。但し、拉致以外のことは喋らないよう。拉致についてもこっそり教えるように」と言われました。正直、こんなに大げさにするつもりはありませんでした。私はただ、一番親しかったキム・ミョンホ(大屋敷正行さん)のお姉さんを捜し出して、消息を知らせてあげようとしか思っていませんでした。その他の人については何も考えていませんでした。



▲大屋敷正行さんについて


 ――その大屋敷さん(※1969年7月下旬、友達とバイクで静岡県沼津の大瀬崎海岸に行き、その日海水浴場のバンガロ−に泊まり、「深夜トイレに行く」と行ったまま蒸発してしまった)のことだが、どうしてキム・ミョンホなる人物が日本人で、大屋敷さんだと言えるのか?

 「57軍校」で会いました。挨拶を交わしたのですが「アンニョンハシムニカ」と言うのですね。朝鮮人ならば「ハシムニカ」とは言わないですね。日本人は「キムチ」と発音するでしょう。朝鮮人は「ム」とは発音しないでしょう。我々の場合はどちらかと言うと「ン」に近いですね。歳は私よりも6つも上だったのですがなにしろ体が小さくて、正直当時24歳になっていたとは思っていませんでした。16歳ぐらいにしか見えませんでした。ですから、18歳の私にとっては弟のように思えたのです。

 3か月の間、兄弟のように親しくしました。そんなこともあってある日、どうして北朝鮮に来たのか聞いてみたのです。そうしたら「拉致された」とは直接言っていませんでしたが、「4日間日本国内の大きな旅館に潜伏した後、車で移動し、船に乗せられ、北朝鮮に連れてこられた」と言っていました。彼とは3か月間、同じ部屋で寝起きを共にしたので忘れませんよ。

 彼はやさしい人で、一度私が熱を出して寝ていたら、どこからか鶏肉をこっそりと盗んでみ、軍用の食器に入れて持ってきてくれたことがありました。見つかったら只では済まされなかったと思います。それだけに彼のことは一生忘れられません。

 ――その後の消息については?

 その後、私は他のところに移動したこともあって7年間彼の消息を聞くことができませんでした。職業柄外部の人と軽々しく接触できないのです。彼は84年頃までこの軍校にいたようです。軍校には日本から大量の文書があって、翻訳の仕事をしていたようです。

 その後、彼の入党の保証人であるカン・ジュンヒョクという人物から彼の消息を聞きました。カンは私が所属していた国家安全保衛部政治局にいました。労働党の入党保証するということは、軍人の場合、入隊から除隊まで、彼が死ぬまで保証するという意味です。カンから聞いて、彼が咸興市の「咸興分院」という名の化学兵器研究所にいることを知りました。手紙を送ったところ、1か月後に返書が来ました。何度か手紙を交換しましたが、そのうち、結婚することになったので、式に出席して欲しいとの要請を受けました。当時様々な事件が発生し、多忙を極めていたことから式への出席が難しくなり、代わりに結婚の祝いと新しい軍服2着を送ってあげました。

 軍服は夏物で当時1、00ウォン、冬物で2、000ウォンぐらいで売れました。3、000ウォンもあれば、結婚式を挙げることができたはずです。その後、お礼の手紙が来ました、その中に結婚式の写真が同封されていました。奥さんのほうが背が大きかったのを今でも印象に残っています。奥さんは労働党の高官の娘で、咸興市内の龍城区にある外国大学の日本語教員をしていたそうです。

 89年頃に「娘が生まれた」との手紙をもらいました。彼は今も生きている筈です。生活も悪くはないと思います。中流レベルの生活をしていると思います。但し、私がここまで喋ってしまったので、身に危険が及ばなければ良いのですが。お姉さんにはミョンホが弟さんであることを知らせてあげなければならないのですが、そのことが彼にとって良いことなのかどうか、正直自信がありません。



▲松本賢一さんについて


 ――松本賢一さん(70年6月に失踪)らしき人物も80年に見たようだが、彼の向こうでの朝鮮名は?

 1980年2月に咸鏡北道にある対南連絡所の5日休養所で見かけました。2度見ました。彼は対南連絡所の特殊部隊作戦組に所属していました。確か大尉の肩書でした。年齢的には中佐になっても不思議ではないのに。朝鮮の名は知りません。口を交わしたことはありませんから。

 −−その人物が日本人だということをどうして知ったのか?

 どこからともなく「日本人だ」との陰口が聞こえてきます。知らないほうがむしろおかしいぐらいです。



▲斉藤裕さんについて


 ――斉藤裕さん (68年12月に北海道稚内市で失踪、当時18歳)についてはどうか?

 彼については松本さんよりよく覚えています。何しろ彼の授業を受けたわけですから。最初に会ったのは57軍校の9大隊に属していた78年5月頃でした。9大隊は黄海北道谷山郡にありますが、彼はそこで日本に関する講義を行っていました。名字は「李」だったか、「金」だったかはちょっと忘れてしまいましたが、「ヨンスン先生」と呼ばれていました。

 写真よりも美男子でした。厳格な男で、授業は厳しく、授業中にちょっとでもうるさくしているのがいると、怒って立たせていたりしていました。ですから生徒からは嫌われていました。私たちは「チョッパリ」「チョッパリ」(日本人蔑視用語)と呼んでいました。  印象深いのは、とにかく自衛隊に詳しかったことです。何か話す時は必ず自衛隊を例えに挙げていました。

 それで私たちは「あの日本人はなぜあういうことを言うんだろうか」とからかったりもしました。運転手付きの車で来て、授業が終わると、食堂で昼を食べ、また車に乗って帰るというパタ−ンでした。身分はそれなりに高く、庭の手入れも兵士らがやってくれていたほどですから、かなり優遇されていたようです。もう除隊した筈です。どこで暮らしているかはおよそ検討がつきます。



▲女性4人について


 ――女性も4人について証言していますが、最も自信のある人は?

 4人とも間違いないと思います。佐々木さん(結婚して5年目の91年4月、「銀行に出勤する」と言って蒸発)という女性については、5454部隊で見ました。平壌市の東大院三馬洞にある5454部隊の本庁舎に2階に通信局という部署があります。彼女はその一室で働いていました。

 私は当時独身でした。そんなこともあって同部隊の語学参謀長から「頭の良い女性がいるから会ってみないか」と言われ、それで一目顔を見ようと思い一度中に入りました。ここは外部の者は立ち入り禁止ですが、語学参謀長が特別に入室を許可してくれたのです。参謀長は彼女を私に紹介することで上級幹部を叔父に持つ私に取り入り、便宜を図ってもらおうと考えていたようです。

 私は一目で彼女が気に入ったのですが、叔父に相談すると「日本人女性と結婚するなんて気でも狂ったのかと叱られてしまいました。この通信局には20〜30人ぐらいの日本人がいました。朝鮮人の通信と一緒に仕事をしていたらしく、向こうでは「あいのこ部隊」と呼ばれていました。朝鮮人と日本人による混合部隊という意味です。

 山本美保さん(84年6月に山梨県甲府の実家で「図書館に行ってくる」と言って蒸発。4日後、新潟県柏崎の海岸で財布と免許証が発見される)という女性もこの部隊で目撃しました。彼女は1度だけでなく何度も見ました。

 ――国弘富子さん(76年8月、山口県宇部の自宅からわずか50m離れた自動販売機で煙草を買う途中に蒸発)と遠山文子さん(73年7月、男友達と旅行中に石川県能登半島の柴垣海岸で不明)は別な場所で目撃したのか?

 国弘さんらしき女性は94年6月に平壌市中央区東興洞にある中央党幹部の家で見ました。正確な日も覚えています。6月15日です。

 中国との国境都市新義州で不正事件があって、それを叔父が現地に乗り込んで処理したのです。無事処理できたことで中央党幹部が組織指導部の秘書らを集めて叔父のため小宴を開いてくれたのです。ところが、ビ−ルが足りなくなったため叔父が対南連絡所後方総局長に連絡でビ−ルの差し入れを要請したのです。

 しばらくすると、後方総局長が奥さんを連れて、差し入れに来たのです。後方総局長がその頃、日本人女性と結婚していたことは皆知っていました。彼女は隣の部屋で他の奥さんらと談笑していました。好奇心から部屋を覗いてみました。彼女は会釈していました。40代だったと思いますが、皺が多く、いやに老けていたのを覚えています。遠山さんらしき女性は93年6月頃に清津にある人民軍連絡所で見ました。

 私は当時、国家安全保衛部指導員として清津連絡所を検閲に赴いていました。検閲の結果重大な不正を発見しました。連絡所の責任者は何とかもみ消そうと、接待し、三日三晩宴席を催してくれたのですが、その時にお酌した相手が彼女です。間違いありません。朝鮮の女性は男の前で堂々と酒を呑んだりしないのですが、彼女はお構えなしでした。名前はキム・ソングンと名乗っていました。彼女は今は北朝鮮にはいません。工作員の男と一緒に海外に出ています。場所については北米としか言えません。

 ――拉致した人を海外に出すのか?

 信頼がある証拠です。また、男と一緒が条件です。一人では絶対に行かせません。女性を海外に派遣する場合、それなりの規定があります。諜報機関の対南連絡所にも国内だけでなく海外にも出張所があります。例えば、香港なんかに。ここで日本の情報を受け取り翻訳をして党中央に報告するようになっています。そのため派遣されるのです。また夫婦を装うため男と一生に出る場合もあります。

 ――貴方の証言が事実かどうか疑問に持っている人も多くいるが?

 いずれわかると思います。例えば、大屋敷さんについては韓国にもう一人証言者がいます。最近、韓国に亡命したようで、大屋敷さんの近況をよく知っているようです。彼もいずれ出て喋ると思います。何だったら、拉致された日本人を北朝鮮から連れてきましょうか。証明することは難しいことではありません。

◆権革氏のプロフィ−ル


 1959年   生まれ(4月21日)

 1974−76 朝鮮人民軍特殊訓練所短期訓練所 

 1977−78 国家政治保衛部傘下57軍校政治局配属(前身部隊はジャンパ−部隊=駐屯地は黄海北道谷山郡の新谷貯水池付近)

 1977年   ★大屋敷正行さん(69年失踪、当時16歳)を泰川軍官学校で目撃朝鮮名キム・ミョンホ

 1978−80 57軍校の泰川軍官学校(再教育機関)に配属

 1978年5月 ★斉藤裕さん(68年失踪、当時18歳)を57軍校で目撃

 1980−83 国家保衛部傘下5454部隊(平壌東大院三馬一洞、鉄塔の付近)に配置

 1980年2月 ★松本賢一さん(70年失踪、当時34歳)を咸鏡北道の対南連絡所の5日休養所で目撃  

 1983−97 国家安全保衛部保衛指導員(最終階級は大佐)

 1993年   ★佐々木悦子さん(91年失踪、当時27歳)と★山本美保さん(84年に失踪、当時20歳)を5454部隊で目撃

 1993年6月 ★遠山文子さん(73年失踪、21歳)を清津連絡所で目撃

 1994年   ★国広富子さん(76年に失踪、24歳)を平壌市中央区東興洞にある中央党の幹部の自宅で目撃

 1997年   休職

 1998−99 中国に派遣

 1999年11 韓国に亡命