2010年3月19日(金)

朴南基部長の「銃殺」報道に接して

 1月に解任が噂されていた朴南基党計画財政部長が昨年11月末に実施したデノミネーション政策の失敗を問責され、その後逮捕、銃殺されたとの報道が韓国であった。

 韓国政府もまだこのことを確認しておらず、現段階では「銃殺説」という段階だが、仮にこれが事実ならば、衝撃的だ。

 過去に不祥事や、経済政策の失敗を問われ、党幹部や総理ら閣僚らが解任されたケースは多々あった。その多くは、地方の工場支配人に飛ばされた。1993年に地方の工場支配人に左遷された金達玄副総理、2005年に同じく工場の支配人に飛ばされた朴奉柱総理らがその代表的なケースだ。最悪のケースでも炭鉱か収容所送りであった。命まで奪うとはよほどのことだ。

 デノミ政策の失敗で招いた経済混乱と民の不満を収拾、沈静化するには、責任者の解任だけでは収まらないので「ショック療法」に出たのかもしれない。人民の不満が国内に相当充満していることの証と言える。そう考えると、経済破綻の責任を一人負わされた朴部長は言わば、「生贄」にされたことになる。

 「銃殺」が事実ならば、経済幹部としては、農業政策の失敗で1995年―96年の間に未曾有の飢饉を招き、数十万、一説では数百万とも言われる餓死者を出した責任を取らされ、1997年に公開銃殺された徐寛熙党書紀(農業担当)以来である。父親の死去から3年後、政権を継承したばかりの金正日総書紀は先代の忠実な部下だった徐寛熙書紀を「米帝国主義の指示を受け、我が国の農業を破綻させたスパイ」として無慈悲にも処刑してしまった。

 伝えられるところでは、朴南基部長の罪状は「国家経済を計画的に破綻させようとした反革命分子」とのことだ。徐書紀は「スパイ」そして朴部長には「反革命分子」とのレッテルを貼っているが、金総書記は「スパイ」に続き、「反革命分子」を側近として登用していたわけだ。

 昨年1年間の統計をみると、金総書記の全国視察に朴部長は77回も随行していた。108回の金基南書紀、94回の義弟の張成沢国防委員に続き、3番目に多い。今年も1月上旬まで彼を側に置いていた。

 金総書記より10歳年上の朴部長は父親の金主席の時代から金属工業部次官(72年)、国家計画副委員長(76年)、党軍需工業担当部長(84年)、国家計画委員長(86年)、党軽工業担当書紀(88年)、平壌市行政経済委員長(93年)など重責を歴任してきた経済テクノクラートの一人である。

 朝鮮戦争当時、チェコに留学し、プラハ工業大学で学んだ経済通だからこそ、金総書記も金主席亡き後、1998年に彼を12年ぶりに国家計画委員長に復帰させ、さらには2005年から党計画財政部長に就かせ、党の資金運営を任せたわけだ。その彼が「国家経済を計画的に破綻させようとした反革命分子」ならば、それを見抜けず、革命的警戒心を怠り、重用し、経済を任せてきた任命者の責任について人民が果たしてどう思うだろうか。脇の甘さでは済まされない話だ。

 おそらく、デノミ政策が成功し、人民生活が向上すれば、後継者と目される三男のジョンウン氏の手柄とし、後継者の業績として大々的に宣伝しようとしたのだろう。それが裏目に出て、目論見が外れたことで、その怒りが朴部長個人に向けられ、「銃殺」となったのかもしれない。

 かつて、不正腐敗容疑で解任された社会主義青年同盟委員長の崔竜海氏(金主席の革命同志、崔賢国防相の息子)が長い間「処刑された」と伝えられていたが、存命していたどころか、4年前に黄海北道の党書紀(知事)として復権していたこともあるだけに、朴部長の射殺についても確認を要する必要があるが、仮に射殺されたのが事実ならば、怖くて、誰も、朴部長の後任にはなりたがらないだろう。