2010年3月5日(金)

金賢姫元工作員の来日をめぐって

 大韓航空機爆破事件の実行犯・金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員が4月に来日する見通しとなった。

 金元工作員の来日については昨年3月に釜山で金元工作員に会った田口八重子さんの息子さんの、飯塚耕一郎さんらが熱望していた。11月にはNHKの単独インタビューに応じ、さらにNHKの放送から3日後の23日には3ヶ月前に耕一郎さん宛てに届いた金元工作員の手紙とビデオレターも公開された。そこには「もし私が今、耕一郎さんの傍にいるのなら、シャブシャブ、春巻、コロッケなど田口さんから学んだ食べ物を作って上げたい」と、日本人の心を掴む、泣かせる言葉が綴られていた。

 それでも、それなりの理由がなければ、日本としては「元死刑囚」をそう簡単に呼ぶわけにはいかない。ところが、しばらく経って「横田めぐみさんと会ったことがある」との発言が飛び出した。「写真は見たことはあるが、会ったことはない」とのこれまでの発言を翻し、一転「会ったことがある」に変わった。

 昨年4月に面談した日本当局者に「めぐみさんのご両親に直接会って、話したい」と伝えていたのである。これを知った、めぐみさんの父親、滋さんも「是非、会って話が聞きたい」と政府に要望した。これで、決まりだ。

 日本に来れば大騒ぎになるだろう。マスメディアの取材も殺到することであろう。拉致議連の中には選挙用にアプローチを試みる議員も出てくるかもしれない。しかし、ここはつとめて冷静に対応しなければならない。

 金元工作員の日本向けの言動に大韓航空機爆破事件の被害者遺族からも、韓国のメディアからも批判の声が出ているからだ。日本人被害者との面談には気軽に応じ、テレビにまで出演するのに、韓国人被害者の家族との面談は今日まで拒み続け、説明責任を果たさない金元工作員への風当たりは強いものがある。当然のことだが、韓国人遺族への配慮を忘れてはならない。

 昨年3月には田口八重子さんの家族との面談が実現した際に金元工作員は当局者から被害者遺族の反感を買う恐れがあるので「あまり微笑まないように」と事前に注意されていた。遺族や支援者から成る「KAL機858事件真相究明市民対策委員会」は金元工作員が公の場に出てきたこと自体を「遺族の心を傷付けた。容認できない」と批判の声を上げていたからだ。

 金元工作員と田口さんの息子さんが抱き合うシーンを見て、当時の麻生政権の河村官房長官は「日本国民が皆、テレビを見て、泣いたと思う」と語っていたが、大量殺人犯の加害者を被害者に、美貌であるが故に「ヒロイン」扱いにする日本人の感覚に疑問を呈していたことを忘れるべきではない。

 金賢姫について足利事件の菅家利和さんと同じ冤罪を連想してしまう日本人がいるかもしれない。金元工作員の場合は、冤罪ではないのである。今から23年前の1987年、クリスマスと正月を家族と共に過ごすのを楽しみに中東から帰国の途についていた115人の出稼ぎ労働者らが乗った大韓航空機858便に爆弾を仕掛け、情け容赦なく空中爆破させた筋金入りの確信犯である。父親、夫、息子を失った遺族らは今もって一体の遺体も上がっていないことから悲しみに暮れている。

 以前にも書いたが、「元死刑囚」でも、菅家さんと金元工作員とでは置かれた環境が全く違っていた。死刑宣告された菅家さんは不当に逮捕されてから18年間も獄中にあって死の恐怖に怯えていたが、金元工作員の場合、死刑宣告されてから1ヶ月もしない間に特赦で釈放されている。

 昨年8月、大韓航空機爆破事件の翌年の1988年に英北部スコットランド上空で発生した米パンナム機爆破テロ事件の主犯として終身刑の判決を受け、スコットランド刑務所で服役中だった元リビア工作員が恩赦で釈放された。この爆破テロ事件では乗客乗員259人と、墜落現場の住民11人が死亡している。

 米国人や英国人を中心とする犠牲者の遺族は、恩赦及びリビアへの送還に強く反発し、米国もクリントン国務長官も、オバマ米大統領も釈放を「誤りだ」と批判するとともにリビア政府に対して身柄が移送された場合、「彼を歓待するのではなく、自宅軟禁措置にすべきだ」と警告していた。

 テロとの戦争を続ける米国は、どのような理由、事情にせよ、テロリストを歓待、ヒーロー扱いするのは慎まなければならないとの立場だ。

 「金元工作員には罪はない。彼女もまた北朝鮮の国家犯罪の犠牲者である」との理屈がまかりとおるなら,「9.11」のテロリストも、自爆犯も、また現在イラクやアフガンなど世界中で囚われているテロリストも、金元工作員同様に体制や組織の命を受けた哀れな「犠牲者」に過ぎないということになる。