2006年11月11日(土)

認定の松本京子さんに関する「証言」

 6か国協議再開を前に「拉致問題を忘れてもらっては困る」とばかり、曽我ひとみさん親子の拉致実行犯の特定、指名手配に続いて、1977年(昭和52年)に鳥取県米子市で失踪した松本京子さん(当時29歳)を政府は近々、拉致被害者として認定する方針だ。

 正式に被害者認定されれば、昨年4月に認定された田中実さん(当時28歳)に次ぎ17人目となる。政府が認定に傾いたのは、これまで行方がわからなかった親族から新たな核心に迫る証言を得られたこと、松本さんの失踪直前に現場付近の海上で北朝鮮工作船とみられる不審船が確認されていたこと、そして、脱北者による北朝鮮での目撃証言が決めてとなったようだ。この脱北者の証言とは、元朝鮮人民軍偵察局大尉、金国石(キム・グッソク)氏を指す。彼はかつて以下のように証言した。

 「1994年11月から1977年5月までの間、清津労働党連絡所で4度見た。対日を担当している連絡所は清津連絡所一つしかない。当時、私は、国家安全保衛部指導員というポストにあった。対南連絡所には知り合いがいたのでよく出入りしていた。彼女は少し明朗の性格のようだった。話をする時も笑いながら話していた。友人に、『彼女はここで何をしているのか』と聞いたら、日本語を教えたり、日本からの資料を翻訳したり、日本のラジオやテレビを傍聴したりしているとの返事だった。結婚していたかどうかわからない。但し、私は見たことはないが、この連絡所には日本人男性が一人いたようだ。実は、私は彼女と言葉を交わしたことが一度ある。96年5月頃だったと記憶しているが、連絡所の中庭に日本から運ばれた中古車数十台があった。知人の貿易会社社長から頼まれ、日産ブルーバードを探していたところ、彼女が、その車をじっと見ていた。座席に座ったりして、いろいろと説明していた」

 「そのうち、トランクを開け、中からゲーム機のようなものを取り出した。彼女は、連絡所の参謀長に『これ貰って良いですか?』と聞いていた。私が彼女に、『この車を見るのは初めて?』と聞くと、『初めて見たわけではないが、以前よりも随分良くなった』と、答えていた。私が、『こんな車は前から随分入っているよ。市内にも多いし』、と言うと、彼女はそのことを知らなかったようだ。ということは、市内に出ていないということだ。私がなぜ、キョウコという名を記憶しているかと言うと、参謀長が『キョウコさん、ドライブしない?』と言ったら、彼女が笑いながら、彼の肩を叩いていたのをよく覚えているからだ。私はそれまで、マサコとか、ミチコという名前は知っていたが、キョウコという名前はその時、初めて耳にしたからだ。彼女は40代前半に見えた。北朝鮮では40代で赤い色の服を着ているのは珍しい。ヘアスタイルも北朝鮮の女性と違い精錬されていた」

 金国石氏は松本さんのほかにも1968年に北海道で失踪した斉藤裕(当時18歳)や1979年と1981年に相次いで死亡したと北朝鮮が発表した市川修一・増元るみ子さん(1978年拉致)らを「マドンヒ大学」と呼ばれている朝鮮人民軍偵察大学で1990年から92年にかけて目撃している。

 市川さんについては、目撃どころか、日本語の授業を直接受けたと証言していた。最小限度の日本語を喋れる彼は、日本語教官だった市川さんが運動会の時に夫人の増元さんを連れてきた話、その際にコカコーラを1本渡した話などこと細かく話していた。松本京子さんとの関連で「金国石証言」が立証されるということは、他の3人に関する証言の信憑性も極めて高いということになる。