15人から50時間かけて「事情聴取」
衆議院外務委員会(2004年11月18日)


 ピョンヤンでの3度目の日朝交渉に関する審議が2004年11月18日に開かれた衆議院外務委員会で行われた。  委員会には日本側団長である藪中三十二外務省アジア太平洋州局長が出席し、各党議員の質問に答えた。その質疑応答を整理して、掲載する(肩書は当時)

△渡辺博道(自民党)


 −−どういう証人と会ったのか?具体的に話を聞きたい。

 証人として面談したのは横田めぐみさんの夫とされるキム・チョルジュン氏、そしてめぐみさんが入院したとされるビョンヤン市郊外の病院の主治医、そして田口さんと原さんが生活していたとされる招待所の職員、石岡さんと有本さんが生活したとされる招待所の職員、石岡さんと有本さんが、事故があったとされる招待所の職員、松木さんが生活したとされる招待所の職員、横田さん、原さんを診察したとされる歯科医、原さんを診察したとされる内科医、増元さんを検視したとされる内科医、その病院の副院長、市川さんが訪れたとされる海水浴場の会計担当者(現場目撃者)、市川さんを検視したとされる医師、検視に立ち会ったとされる看護婦、田口さんの事故現場とされる道路を目撃したとされる道路管理人らと面談した。

 −−キム・チョルジュンはどんな男か、会った時の印象と話の内容を聞かせてもらいたい

 工作関係に携わっている人間であるということは調査委員会から説明があった。本人からもそのような趣旨の話があった。当初は30分という約束だったが、実際には1時間30分話し合いがもたれた。冒頭ではキム・ヘギョンさんも同席したが、短時間で退席された。結婚当時の家族写真を提示し、結婚当時の生活、その後のめぐみさんの病状のような話を詳しく聞き取った。淡々と、時には感情を込めて話していた。めぐみさんとの思いでや、苦しかった時のことなどを。今聞いてきた話を精査しているところだ。我々が持っている情報と突き合わせて精査している。

 −−キム・チョルジュンなる人物がめぐみさんの遺骨を持っていたということか?

 彼の発言によると、彼が遺骨を持っていた、非常に大事に保管をしていたようだ。横田めぐみさんのご両親に最終的には渡して欲しいと言われた。

 −−病院に埋葬されていたのを2年6か月後に掘り起こし、手元に置いていたというのは不自然だ。このことについて問いただしたのか?

 病院の裏山に墓地があった。そこを視察したが、広い場所だった。日本のお墓のようにまとまっている場所ではない。埋葬されていたとされる墓地のところまで行ってみた。そこには石だけが残っていた。その下に土葬で埋めたとの説明だ。移したことについては、毎回そこに行くということは、お墓を守るということは大変な作業だと言っていた。確かにピョンヤンから遠いところにあった。それで、自分で遺体をきっちり守り、管理するために遺体を火葬にしたとの説明があった。

 −−めぐみさんのカルテについては膨大な量と聞いているが...

 カルテは190枚以上に及ぶ。北朝鮮に拉致された初期の段階から93年までのカルテである。今、検証と鑑定作業を行っている。相当に詳しいものだった。

 −−めぐみさんは94年3月まで入院し、その後死亡(94年4月)したと北朝鮮は言っていたようだが、94年のカルテはないのか?

 提供されたカルテは695病院のカルテである。93年9月までのものだ。亡くなったとされる病院は49予防院だ。そこのカルテはなかった。

 −−古いほうがあって、新しいのがないのはおかしい。キム・チョルジュンがめぐみさんの夫であることを特定できるその他の物品は出されたのか?

 やりとりの中で先方の説明、こちらが持っている情報をベ−スに問いただした。毛髪などは先方のほうで立場上身元を明らかにできないとしたうえでその代わりとして2枚の写真を出してきた。一枚はめぐみさんと彼との結婚直後のピョンヤン市内での写真、もう一枚はヘギョンさんの1歳の誕生日の時に3人で撮ったとされる写真であった。その他の方法というと、我々も少しは工夫をした。事の性格上、また現在精査中なのでこれ以上話せない。

 −−めぐみさんに関してはいろいろな物証や証人が出てきているが、その他の被害者についてはほとんど前回と代わらない。差はあまりにも歴然だ。こうした対応については?

 各自についてもいろいろと質問した。例えば、市川さんのケ−スだが、元山の海水浴場の話があった。9月に入ってから海水浴をするのかと問いただした。これについて、その日、9月4日の元山海水浴場の気温が何度であったとか、またその場にいた人間ということで、海水浴場の入口でチェックをしていた出納の係員にも会った。この係員の話では1キロぐらい離れたところの病院に運び込まれたというので、その時直接診察したという医師、立ち会っていたという看護婦をピョンヤンに呼んでもらい具体的に話を聞き出した。やりとりというと、各々50分から1時間ちかくの聞き取りを行った。本当の真実に迫られたかというと疑問点、不可解な点が残ったということだ。

△丸谷佳織(公明党)


 −−めぐみさんが死亡した日時(北朝鮮の発表:94年4月13日)については信憑性はあるのか?

 日付が変わる(93年4月から94年4月に)ということは我々の常識ではありえない。不可解で、疑問の多いところだ。先方の説明では、49号予防院の記録が残っていなかった、従って当時の記録を辿って、前回は93年ではなかったと。しかし、その後いろいろ関係者から聞いて、調べた結果が94年3月10日に入院され、4月13日に亡くなったという説明だった。

 −−調査委員会の責任者、陳日宝人民保安省局長は信頼に値する人物だったのか?警察の人間が国家安全保衛部や秘密機関への取り調べなどができるのか?

 調査委員会は政府から与えられた権限、調査権限を持っているとの説明があった。共和国の決定として調査委員会を設けたと言っていた。陳局長は人民保安省の捜査担当局長、1936年生まれで、1965年から40年間人民保安省に勤務しているとの説明だ。彼以外に数名の調査委員会の人が協議に出てきた。

△中川正春(民主党)


 −−具体的に不自然な点を象徴するものとは?

 例えば、市川さんのケ−スだ。9月に海水浴場で泳ぐのか、市川さんは泳ぐのが好きではなく、ほとんど泳げなかった。先方の説明は、午後3時に泳いでいた、最高気温は22.5度であったと説明していた。若い市川さんが心臓麻痺でなくなるのかという疑問だ。石岡さんと有本さんが静かなところに行きたいというのもおかしいと、ピョンヤンの郊外でも随分と静かなのにだ。到着した明け方にガス中毒で死亡したというのも不自然だ。関係者から話を聞いたけど、依然として大きな疑問が残っているということだ。

 −−めぐみさんについての疑問点は?

 死亡したとの先方の説明が93年から94年に変わったことだ。死亡台帳には調査の過程で日本側から問いただされたので間違って記入したという説明は疑問の多いところだまた、予防院も視察したが、で実際にどういう状況だったのかについては簡単には疑問が解けない。

 −−拉致事件の責任者について聞きたい。2名が処罰されたとの2年前の説明があって、今回裁判記録を持ってきたそうだが、その他の実行犯や関係者は降格や除隊という処分 があったとのことだが、具体的にどういう人物がどういう処罰を受けたのか?

 今まさに整備、精査中だ。例えば、石岡さんのケ−スは熙川の招待所でガス中毒で亡くなったとのことだ、その招待所は特殊機関が運営しているわけだが先方の説明では招待所の管理人が管理不行届きということで除隊されたとのことだ。その他の場合でも指導員の除隊や降格処分が何人かあったと言っていた。

 −−直接拉致の犯罪に関わった人ではなく、招待所で拉致被害者を管理していた指導員の名前は列挙されたのか?拉致がどの指令系統で実行され、誰に最終的に責任があったのか説明があったのか?

 我々としてもそこが非常に大事なところだと考えていた。具体的な実行犯、責任者に対してどのような処罰があったのか、やりとりがあった。先方の説明では責任者というのがチャン・ボンリムとキム・ソンチョルとのことだ。2年前と同じ答えだ。2人がどういう人間で具体的に何を責任持ってやったのか明白にしろと言ったら今回は裁判記録が提示された。

 −−他の実行犯とは?

 具体的な拉致の実行犯の名前はわかっていない。先方からは工作員の名前を明らかにはしなかった。こちらから名前を挙げたら、その人物は降格したという説明だった。

 −−カルテ以外の関係資料はどのようなものか?

 石岡さんと有本さんの招待所の略図、当時の天候の資料、市川さんについての当時の天候資料、2件の交通事故があったが、当時の交通事故の記録、写真や書籍などだ。

 −−北朝鮮は特定失踪者の5人についてはどのような調査をした結果、入国した確認がないと言ってきたのか?

 特定失踪者の問題についても今回は取り上げた。調査委員会としても調査をし、情報を提供するよう求めた。先方は調査委員会として確認作業を行ったと。各々のケ−スについて具体的にどのような確認作業を行ったのか問いただしたがそれ以上の説明はなかった。我々は満足していないので引き続き先方に情報の提供を求めていく考えだ。

 −−次の交渉はいつやるのか?

 精査の作業を全力あげてやった後、今後の対応を考えることになる。

△松原仁(民主党)


 −−藪中さんは今回の交渉で経済制裁について言及したのか?

 政府を挙げての調査団なので真相糾明が我々の目的だった。真相糾明の際に厳しいやりとりがあった。経済制裁という言葉は使わなかったが、当然我々の方から進展がなければ国内の厳しい状況、世論があるという形で言及された。先方も国会での質疑等々については十分にフォロ−しているようだった。

 −−今回の物証の中で拉致被害者の生存につながる物証はなかったのか?

 直接に安否につながる物証はめぐみさんのものとされる遺骨、それと交通事故で亡くなったとされる2件に関する当時の資料、それと、裁判記録だ。

 −−前回に比べると、安否に関わる物証は減っていると理解していいのか?

 前回と比較すると、前回は8人の死亡証明書と松木さんのものとされる遺骨だった。比較はできない。

 −−前回の死亡診断書は明らかに偽装だったことがはっきりしたが、先方はどう言ってきたのか?

 先方の説明では遺憾ながらという言葉はあった。

 −−ヘギョンちゃんが同席していたが、キム・チョルジュンのことをお父さんと呼んでいたのか?

 部屋に入ったら、二人が隣り合わせで座っていた。我々数人で入ったが、緊張気味だった。ヘギョンちゃんがいたことはその時初めて知った。挨拶を交わして3〜4分で退席してしまった。

 −−ヘギョンちゃんが出ていった後に具体的に遺骨の話になったのか?

 そのとおり。何度も何度も話したら遺骨の話が出てきた。

 −−毛髪を出さなかった時に、金正日さんが再調査を認めたのだから髪の毛を出しなさ いと言わなかったのか?

 キム・チョルジュンさんに会う前に病院に行き、主治医からキム・チョルジュン氏が遺体を土葬し、2年後に遺体を持ち帰ったとの説明を受けたので、その遺体をどうしたのか集中的に聞いた。当初、彼は横田夫妻に直接話したいと言っていた。そのやりとりの中で本人証明のための毛髪を求めた。先方は自分の置かれた立場上、仕事の立場上できないと言って、二枚の写真を出してきた。我々は、彼がどのような顔つきなのかいろいろな情報を持っていたので、照らし合わせながら、さらには工夫をした。

△赤嶺政賢(共産党)


 −−以然として疑問の点とは何か?今後、これらの問題をどう解決するのか?

 調査委員会からの説明、聞き取り、そして我々から疑問をぶつけた。関係者15人に会って、その人らにも疑問をぶつけた。今後、我々の持っている情報と点検する。非常に難しいのは、先方が言う、亡くなったとされるタイムは、具体的な証拠、具体的な書類というのは当時焼却されているのが大きな問題として残っている、従って、我々の疑問点,問題点を解明するのは容易ではない。しかしながら、様々な聞き取りを行った、また物証もあるのでそうした精査を踏まえて真相糾明を図る考えだ。

 −−キム・チョルジュン氏は拉致問題解決のためには避けて通れない一つのプロセスということだが、彼と面会して、前進はあったのか、あるいはどういう問題が残されているのか?

 キム・チョルジュン氏から相当長い時間をかけて話を聞き、疑問をぶつけた。最後に遺体を取り出した話を聞き、遺骨を受け取ってきた。もちろん、いま検証中だが、検証の結果を待っているところだ。

 −−どうやってキム・チョルジュン氏がめぐみさんの夫であるという証明を北朝鮮側に求めていくのか?

 まずは先方が言うめぐみさんの遺骨が本物であるかどうかということについて解明すること、即ち鑑定作業なので、政府全体で努力していく。これがひとつの大きなポイントとなるが、キム・チョルジュン氏が本当に夫であったのかを知ることだ。本人の写真の提供はなかったが、我々は彼がどのような姿、顔の形をしていたのかいろいろな情報から承知している。会った時にも実際に少し、専門的な調査の手法の努力をやってみた。鑑定もやっている。うまくいくかどうかはまだわからない。

△照屋寛徳(社民党)


 −−長時間のやりとりの中でキム・チョルジュン氏さんがめぐみさんの夫との確証は持っているのか?

 まさにいろいろと突っ込んだやりとりを行った。彼からの説明もあったし、こちらからも持っている資料に基づいていろいろ質問をした。矛盾点がないか、いろいろ疑問をぶつけた。彼がめぐみさんとどういう生活をやってきたのかとか。最後に彼からめぐみさんのものとしての遺骨の提供があった。全体として総合的な精査の作業が必要だ。今はここでその心証を申し上げる立場にはない。

 −−キム・チョルジュン氏からの結婚写真を魅せられたようだが、その写真とは?

 本人確認を求めた際に見せられたものだ。そのうちの一枚は二人で結婚直後に撮ったものであると言っていた。古い写真であった。女性はめぐみさんのようで男性のほうはキム・チョルジュン氏に似ていた。◆