2010年3月1日(月)
真央vsヨナの真剣勝負をみて
女子フィギュアスケートの浅田真央vs金ヨナの金メダルを賭けた対決は圧巻だった。
SPで4点以上の差を付けられていた真央がヨナを逆転するには、ヨナがジャンプで失敗し、真央が完璧な演技をする以外なかった。しかし、結果は、不幸にもその逆だった。
マスコミでは本番直前まで「逆転可能な点差」と騒いでいたが、仮にフリーで真央が完璧に演じたとしてもヨナが失敗しない限り、SPで差を付けられている以上、逆転はあり得なかった。真央がミスらずフリーでヨナと同じ150点を取ったとしても、金メダルには手が届かなかった。
SPでは、甲乙付けがたいほど二人ともほぼ完璧に演じた。にもかかわらず、4点以上の差が付いた。なぜ、差が付いたのか、そのことを検証して生かすことが、悔し涙が嬉し涙となる必須条件ではないだろうか、素人ながら思った。勝負はすでにSPで終わっていたのである。
女子フィギュアの「日韓対決」は、韓国に軍配が上がったが、日本はメダル獲得数でも今回も韓国には勝てなかった。金6、銀6、銅2の韓国に対して日本は銀3、銅2で、金はゼロだ。韓国は国別獲得数では5位、日本は20位。1998年の長野五輪を最後に、アジアの盟主の座を韓国に明け渡したままだ。
人口では韓国よりも2.5倍も多く、経済力でも韓国を圧倒しており、選手団の数も韓国より多く、冬の競技ではアジアの先進国である日本が韓国に引き離されている今日の現状は嘆かわしい。施設がどうのこうの、練習量がどうのこうのとマスコミは自慰しているが、果たして敗因はそれだけだろうか。
石原東京都知事が「銅メダルを取って狂喜する。こんな馬鹿な国はない」と、銅メダルを取っただけで大騒ぎする日本国内の報道に釘を刺していたが、「石原嫌い」の韓国人の多くは、おそらく石原知事の今回の発言を「もっともだ」と共感しただろう。
勝てなかったのに、メダルを取れなかったのに「国民に勇気を与えた」とか「勇気をもらった」という言葉がマスコミで連呼されていたが、これは明らかに違う。国民の、関係者の期待を裏切った結果となった以上、正確に言えば「失望」と「落胆」を与えたことになる。
仮に、韓国が金メダルなしで終わったならば、あるいはヨナが金メダルを逃したら、韓国のメディアには「失望」「落胆」「屈辱」という見出しがデカデカと載ったことだろう。韓国の選手にはこうしたプレッシャーがあるからこそ、それを跳ね除けるだけの精神力と気迫が逆に培われるのかもしれない。
もちろん、メダルを取れなかった、あるいは入賞できなかった選手の誰もが全力を尽くし、精一杯頑張ったのは確かだ。勝敗に関係なく、必死に努力する姿に国民は心を打たれ、感動を覚えるものだ。それでも「勇気」を与えたことには、勇気をもらったことにはならない。
日本のマスコミ社会は一社が「勇気を与えた」と言えば、他社もそれに追随する風潮がある。どこか一社ぐらいは、あるいは解説者やコメンテーターの中で一人ぐらいは期待を裏切った選手には今後のために叱咤しても良さそうなものだ。選手は叩かれ、それをバネに発奮してこそ、大成する。
銀メダルでも、銅メダルでも立派というが、ボクシングの世界に例えるならば、世界ランク2位も、3位も全く意味がない。世界チャンピョンに、世界王座にならなければその世界では評価されない。たかが金メダルではないのである。
もちろん、期待を裏切ったことで選手がバッシングに合わないよう、メダルや入賞を逃しても、「勇気を与えた」とか「勇気をもらった」と報道することで選手を庇おうとする温情は理解できないわけではない。それが、日本の良き国民性かもしれない。日本人らしいと言えば、日本人らしい。
それでも、石原知事ではないが、銀や銅メダル、入賞で良かったと言っているようでは、次回の冬季五輪もまた金メダルゼロで終わるだろう。五輪は参加することに意義があると思って、出場しているのならば、それも良し。しかし、実際は国民はメダルを、中でも金メダルを望んでいる。ならば、そういう悠長なことは言っていられないはずである
金メダルを逃した真央ちゃんも、4位に終わった女子モーグルの上村選手も悔しさを表情に表し、また口にしていたが、その気持ちが大切だ。その悔しさを忘れなければ、次は必ず、望みが叶うというもの。